【高橋幸宏さんを偲ぶ】ピーター・バラカンがジャパン・タイムズの追悼記事に驚いた理由

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求人広告で来日

 バラカンさんは1951年8月にイギリスのロンドンで生まれた。高橋さんの生年月日は1952年6月6日だから1歳上になる。

 かつて雑誌のインタビューでバラカンさんは、幼い頃から“音楽バカ”だったことを振り返っている。クリスマスや誕生日に両親や親類から「プレゼントは何がいい?」と訊かれると、必ず「レコード」と答えていたそうだ(註2)。

 バラカンさんはロンドン大学に進み、日本語を専攻した。卒業後はレコード販売のチェーン店に就職。数カ月で店長になったという。

 1974年の春、レコード店で購読していた音楽業界紙で、現在のシンコーミュージック・エンタテイメント(註3)が求人広告を出していたのを見て応募、夏に採用が決まった。

 一方の高橋さんは、高校在学時からスタジオミュージシャンとして活躍。武蔵野美術大学短期大学部に進むと、在学中の72年、「サディスティック・ミカ・バンド」(註4)に参加した。

 74年にサディスティック・ミカ・バンドは、「ロキシー・ミュージック」(註5)の全英ツアーでオープニング・アクト(前座)を務める。バラカンさんの来日と高橋さんの渡英は同じ年ということになり、不思議な縁を感じさせる。

坂本さんとの出会い

「シンコーには6年いましたけれど、途中で仕事の限界を感じるようになって、だんだんと意欲が減ってきていたんですね。でも、当時のビザは有効期間が半年しかなかった。もし会社を辞めたとしても、ビザが失効すると強制送還になってしまう。だから仕方なく仕事を続けていたわけです」

 そんなバラカンさんに転機が訪れた。知人から電話で「友達がレコードを作るんだけど、その中の1曲で歌詞を手伝ってもらえないか」と依頼されたのだ。

「その友達が坂本龍一、つまり“教授”だったんです。その頃、僕は名前すら知らなかった。手伝うことになったのは、アルバム『B-2 Unit(ビーツー・ユニット)』(1980年9月)に収録された『Thatness and Thereness(ザットネス・アンド・ゼアネス)』という変わった曲でした。シンコーの仕事でロンドンに出張した時、たまたま教授も同じ飛行機に乗っていて、機内で紹介されました」

 送られてきた歌詞を見て、バラカンさんは英語を手直ししたり、創作した詞を付け加えたりした。送り返すとそれっきりとなったが、「B-2 Unit」の発売が決まった頃、坂本さんのマネージャーから連絡があった。歌詞の仕事のギャラを決めるので、一度会いたいという。

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