現代アートの芸術祭は地域をどう開いていったか――北川フラム(アートディレクター)【佐藤優の頂上対決】

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地域を開く

佐藤 北川さんは東京藝術大学出身ですね。絵を描いていこうと考えたこともあったのですか。

北川 もう早い時期から、裏方になろうと思っていましたね。私は高校を卒業して1965年に上京しました。受験に失敗したりしましたが、当時、全共闘運動に傾倒していたんですね。それで1967年の第2次砂川闘争で機動隊に頭を割られてしまった。2カ月間入院しました。最初は警察病院で、ほどなくお茶の水の東京医科歯科大学病院に転院しますが、時間があるわけですね。少しよくなると病院を抜け出して上野に行き、いろんな美術展を見ました。そんな時に突然、絵を描きたいと思ったんです。それで藝大を受けて合格した。

佐藤 当時は絵を志されていた。

北川 そうですね。瑛九、小出楢重、村上華岳などの絵が好きでしたが、ただ彼らも晩年になると作品が面白くなくなる。村上華岳など、学生の時に描いた絵に比べたら、晩年の仏画なんてどうしようもないんです。

佐藤 どうしてそうなるのですか。

北川 もう語るべきものがない、よるべきものがなくなったからだと思います。社会的なフランチャイズがないことが決定的な要因です。

佐藤 描くことの基盤となるものが失われてしまったわけですね。

北川 彼らがそうなるのなら、私が絵を描いてもそこを超えられないだろうと思ったんです。だから学生時代には、裏方に回り、美術の「構造」に関わろうと決めていました。

佐藤 確かに北川さんが作られる芸術祭は、一般的な芸術イベントとは「構造」が違いますね。どのように現在の形の芸術祭に行き着いたのでしょうか。

北川 1970年代後半から1980年代までは、喫茶店内の絵を描いたり、デパートの売り場のディスプレイを作ったり、食べていくだけの仕事でした。ただ、その中でも社会におけるアートの役割、アートで何ができるかは考えていた。

佐藤 社会変革を目指した大学闘争の情熱が形を変えて続いていた感じですね。

北川 1980年代、90年代は、田舎がどんどんダメになっていった時代です。ちょうどその頃、茨城県の農村で1340本もの巨大な傘を立てたクリストのアンブレラ・プロジェクトを手伝う機会があったんですね。これをお祭りみたいにできないだろうか、アートで地域を開いていけたら面白いだろうな、と思ったのですよ。

佐藤 田舎や農村についての関心がずっとあった。

北川 日本の左翼は農村で「革命」を指導しようとして失敗しましたね。それは集落の共同体の価値観を否定したからだと思うのです。その土地に入る時には、そこで積み重ねられてきた歴史や風土を理解し敬意を払う必要がある。さらにそこで作品を作るとなれば、地域にある「私有関係」をも超えていかなければならない。空き家一軒にも、その持ち主がいるし、持ち主の兄弟もいる。そして隣近所の住民がいる。そうした関係のある人たちや行政に了承を取り付けていくのはものすごく手間がかかることです。でもその中で、地域が開かれていく。

佐藤 展示するだけでなく、そのプロセス自体に意味があるのですね。

北川 ええ、田舎はお年寄りもみんな働いています。その中へ作品を持ち込むわけです。作るのには人手がありませんから「こへび隊」がやってくる。でも実際に作る段階になると、清掃や除草など、地元の方の教えや手伝いがないとうまくいかないのです。また設置に重機を使うなら、地元の業者にお願いすることになる。そして彼らは、そこで泊まり、食事もする。彼らの存在も地域を開くことにつながっていくのです。

佐藤 壮大な仕掛けですね。それはどこか、地方で失われた祭りへの回帰のようでもあります。

北川 そう思います。もう一つ違う角度からお話しすると、いまの都市空間は、高層、鉄筋、ガラスで成り立っていますね。事務所も住宅もそうです。これらによって作り出された「均質空間」こそ、この100年、世界を覆っている最大の思想ではないかと思うのです。美術館やギャラリーもそれに見合う形で、「ホワイトキューブ」という入れ物になり、どこも真っ白で高い壁に作品を展示している。

佐藤 確かに、建築物としてのデザインは違っても、美術館には共通の雰囲気があります。

北川 基本的に中は同じ構造です。こうした均質空間は、20世紀の民主主義や機会均等社会には、ものすごく合っているのだと思います。だから東京もニューヨークもヨハネスブルクも、同じような空間ができる。でも私は「そんな空間、本当はどこにもないよ」と言いたいのです。

佐藤 非常に人工的で、実験室みたいなものですからね。

北川 そこで何かを発明したり発見したりするのには、いいのかもしれない。でもそこで、ほんとうに面白い作品ができるのか、と思いますね。そうした空間で生まれる作品は、エネルギーをなくし虚脱していく人間に見合ったものにしかならないのではないか、という気がするのです。

佐藤 拘置所の独房は、まさに均質空間でした。考えてみれば、工場も学校もそうです。だから一部の子供たちが、均質空間たる学校に行けなくなるのも当然かもしれない。

北川 いまの美術は、その空間の中で、一番美しく見えるものがいいという価値観になっている。でもそれはどこかおかしいし、嫌なのですよ。

佐藤 都市にある美術作品はものすごく偏っているわけですね。

北川 そのほうが一般的にわかりやすいし、安心できます。でも美術のおもしろさは、そうした均質空間からは出てこないのではないか。そう思って始めたのが、いまの芸術祭ということになります。

佐藤 美術館とは別の価値体系を作り上げた。

北川 何しろ作品があるのは、空き地や空き家、田んぼですから。どこにも均質空間がない。そこでやるとものすごくいいものが生まれてくるし、それをみんなが面白がり始めています。

佐藤 現代美術を理解し始めた。

北川 いやいや、まだ現地では「現代アートは何もわからない」と言っていますよ。「俺でも作れる」とかね。この間、中学生が作品を壊してしまったのですが「壊すのもわかるよ」と言うしかない。それでいいんですよ。作品から何かを感じてくれれば、それでいいのです。

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