梨泰院雑踏事故から3カ月  「韓国人記者」が明石歩道橋事故を直接取材 遺族宅で目にした「絶対に忘れられない」光景とは

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 2022年10月29日、韓国・ソウル市の梨泰院(イテウォン)の路上で群衆事故が起き、日本人2人を含む158人が死亡した。日本で群衆事故といえば、2001年7月に兵庫県明石市の歩道橋で、花火大会の見物客11人が死亡した「明石歩道橋事故」がある。1月初め、韓国の週刊誌『時事IN 』の記者が来日し、「歩道橋事故を教訓にしたい」と遺族や弁護士らを取材した。【粟野仁雄/ジャーナリスト】

歩道橋は「平和的な風景」

 1月2日、『時事IN』の取材記者ジョン・ヘウォン さんと写真記者シン・ソンヨンさんの2人が来日した。関西空港に到着し、まず向かったのは、明石市のJR神戸線・朝霧駅から海岸へ向かう事故現場の歩道橋だった。

「歩道橋を見て、あまりにも平和な風景にびっくりしました。『想の像』に手を合わせて祈る人がいたり、子どもたちがじっと見つめる姿には感動しました。20年以上経っても、みんなが事故を覚えていることがすごく印象深かったのです」(ジョン記者)

「想の像」とは、遺族の有志が歩道橋上に据えた、犠牲者の名が刻まれた像だ。遺族らは毎年、事故が起きた7月21日に、この場所で慰霊式を行ってきた。

 翌日は、まもなく2歳を迎えるはずだった二男の智仁ちゃんを事故で失った下村誠治さん(64)、二女の優衣菜ちゃん(当時8歳)を亡くした三木清さん(53)を取材した。少し寒かったが、花火大会があった海岸のベンチで話を聞くことになった。

 下村さん自身も、二男とともに事故に巻き込まれた。当時、歩道橋の上から110番に7回も通報したのに、のちに警察は「(全体で)21件しか通報がなかった」と主張。それに対する不信感や、110番の回線自体がパンクし、十分に対応されなかった当時の状況を振り返った。さらに、当日、警察は暴走族対策に注力したため警備要員をほとんど置かず、通りかかった警官に下村さんが助けを求めても素通りされたという経験を語った。

 下村さんは事故後、事故・事件・災害などの被害者遺族と幅広く交流してきた。「いずれソウルの遺族らと交流したい。日本と韓国は国レベルではぎすぎすしているけど、2つの悲劇を日韓の関係改善に繋げられれば」と話す。

状況が似ている

 三木さんは、事故が発生した際に優衣菜ちゃんといた場所を示し、「最初、橋の上の若者が煽って事故が起きたなんて言われたが、違っていた。遺族らは『なんであんな所に連れて行くのや』という中傷に苦しんだ」などと話した。

 ジョン記者は「お二人が、今まさに事故が起きたかのように詳しく覚えていらっしゃることに驚きました。智仁ちゃんの写真や優衣菜ちゃんの感謝状など、思い出の品の実物を見るのは、(遺族が経験をつづった)本で読むのとは全然違いました。韓国では事故が起きる3時間以上前の午後6時34分から何度も通報が入ったのに、なぜ警察は対応できなかったかが議論になっています。歩道橋事故と状況が似すぎていてびっくりしました」と話す 。

 感謝状とは、事故の少し前、優衣菜ちゃんが育ててくれた両親へのお礼を込めて自作した賞状のこと。今回、『時事イン』の誌面に掲載された。

 下村さんは「事前にすごく勉強していて驚いた。三木君の娘さんの感謝状のことまで知っていた。韓国では、雑踏警備より麻薬の取り締まりに力を入れていたなど、警察の状況もそっくり。国情は違うけど、参考にしてくれれば」と語る。

 三木さんも「長女(亡くなった優衣菜ちゃんの姉)の名前まで知っていてびっくりした。異動が激しいこともあるけど、日本の新聞記者たちは『亡くなった子供さんの名前はなんというんですか?』なんて聞いたりするのに」と感心しきりだった。

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