野村萬斎が演じるも開始45分で死亡! 今川義元がじつは「勇猛な武将」だった決定的証拠

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 2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」が始まった。1月8日放送の第1回「どうする桶狭間」では、野村萬斎演じる今川義元が異彩を放って登場したものの、討ち死にする場面すら描かれることなく、開始45分でまさかの「退場」となった。

10倍の兵力差

 今川義元とは何者か。多くの人は「桶狭間の戦いで織田信長に敗れた人」として記憶しているのではないだろうか。

 信長の一代記「信長公記」によれば、義元は桶狭間の戦いに4万5千人もの大軍を動員したという。ただ、これは多すぎるように思う。

 同書は信長に仕えた太田牛一が執筆した。牛一は信長の言動を見聞きしているから記述の信頼性は基本的に高いが、信長の偉大さを強調することもある。今川軍の数を誇大に記した可能性がある。同書は桶狭間の戦いの年を永禄3年(1560)でなく天文21年(1552)と誤記もしており、そもそも牛一はこの合戦に参戦していなかったのかもしれない。
 
 江戸初期に成立した「北条五代記」は今川軍を2万5千人と記し、これを採用する論者が多い。近世大名の軍役基準は1万石につき250人程度といわれ、また太閤検地のデータを参考にすると、義元の領国(駿河・遠江・三河と尾張の一部)は90万~100万石と試算できる。2万5千人ならば、率いても不思議はない数というわけだ。

 対する信長の軍勢は、「信長公記」によると2千人である。2万5千対2千なら兵力差は10倍以上。義元が勝つと誰もが思う。にもかかわらず信長が勝ったが故に、後世の人は信長を軍事的天才と称賛した。一方の負けた義元は「愚将」と軽侮された。しかし、これは結果論にすぎない。

桶狭間論争の勃発

 通説では、信長の勝因は今川軍の先陣を回避した本陣への奇襲にあるとされた。義元の本隊が桶狭間(田楽狭間)で休息していると知った信長が、豪雨に乗じて善照寺砦から間道を通ってひそかに田楽狭間の背後の太子ヶ根山に回り、谷底に布陣していた今川義元に対して奇襲を行い討ち取った、というのである。

 だが、在野の歴史研究者である藤本正行氏が「信長公記」の記述を根拠に、信長軍が大きく迂回して今川軍を背後から奇襲したという通説(迂回奇襲説)を否定した。従前の迂回奇襲説は江戸時代の儒医・小瀬甫庵(おぜほあん)が創作を交えて著した「甫庵信長記」に依拠しており、信憑性に乏しいという。一級史料の「信長公記」に従う限り、信長は善照寺砦から南の中島砦に移り、さらに東に進み、「おけはざま山」に布陣する義元本隊に対して東向きに戦っており、「堂々たる正面攻撃」を行ったと藤本氏は主張した。今川軍は予想外の正面攻撃に動揺し、陣形が崩れて義元戦死に至ったという。

 藤本氏は、信長が無謀に思える正面攻撃を敢行したのは、前面の敵部隊が疲弊していると誤断したにすぎず、結果的に本陣強襲になっただけだと説いている。

 この藤本説の提起を機に“桶狭間論争”が巻き起こった。たとえば「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」の再評価を進める黒田日出男氏は、「軍鑑」の記述に着目して「乱取り状態急襲説」を唱えた。勝利を確信した今川軍の雑兵(ぞうひょう)が乱取り(戦場周辺での略奪)に精を出している隙を突かれたのだという。黒田氏は正面攻撃説では少数の信長軍が勝てた理由を十分に説明できないと批判するが、信長に出陣段階から奇襲の意図があったわけではなく、結果的に義元の不意を突く形になっただけだとする点では藤本説と共通する。

 また、今川氏研究の第一人者である小和田哲男氏は、正面攻撃とはいえ、義元にとっては予想外のところから敵が現れたのだから、広い意味での奇襲であると論じている。確かに総大将である信長が最前線まで進出することには大きな危険が伴い、当時の合戦の常識から見ても異例である。義元が想定できなかったとしても無理はない。

 いまだ信長の勝因の定説はみないが、信長が最初から義元の首を取ろうと考えてはいなかったことは確実だ。義元は不運だったにすぎない。加えて、最近の研究では、今川軍と織田軍の兵力差は従来考えられていたよりも小さかったことが指摘されており、この点からも義元愚将論は成り立たない。

戦国大名の気概

 これまでの小説やドラマでは、義元が公家風の軟弱な格好で戦場に臨んだかのように描かれてきたが、「信長公記」にそのような記述はない。義元が塗輿(ぬりごし)に乗ったという記述は「信長公記」に見えるが、「太りすぎて馬に乗れなかったから」というのは後世の俗説である。小和田氏は、塗輿の使用には将軍の許可が必要だったと指摘し、名門今川家の権威によって信長を圧倒する意図があったと論じている。

 義元は軟弱な大名どころか、三河に積極的に侵攻し、これを制圧した勇猛な武将であった。「どうする家康」の義元像も、近年の歴史学界の研究成果に基づいた新しいものといえよう。義元の時代に、今川氏の領土は最大に広がったのである。

 戦国大名が領国統治のために定めた法律を分国法という。義元の父、今川氏親(うじちか)が定めた「今川かな目録」は極めて体系的・網羅的で、分国法の最高傑作といわれる。中世史研究者の清水克行氏は、後発の「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」(武田氏の分国法)よりも完成度が高い、と評価している。義元はこの「今川かな目録」を踏まえ、天文22年(1553)に「かな目録追加」を制定した。

 この第20条は領国内の寺社の「守護使不入(しゅごしふにゅう)」を廃止する条文だ。守護使不入とは、守護からの徴税を拒否するために有力寺社などが将軍から獲得したお墨付きで、守護である今川氏の介入を禁じるものである。だが義元は「今は今川氏が将軍の力を借りずに自力で法を定め領国を統治しているので、かつて将軍が与えた守護使不入の特権は無効である」と、この条文で宣言した。

 将軍の下にある守護大名から、自らの実力で領国を支配する戦国大名へと脱皮した義元の気概が、この一文から読み取れよう。今後の「どうする家康」でも、回想シーンなどの形で、名君・名将としての今川義元が描かれることに期待したい。

『武士とは何か』より一部を再編集。

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