日本列島改造から50年 「鉄道整備」に注力した田中角栄の慧眼と3人の鉄道人

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 1972年、田中角栄内閣が発足した。田中首相が手がけた政策は多々あるが、その旗印が日本列島改造で、内閣発足直後から日本列島の改造に着手している。つまり、今年2022年は日本列島改造50年という節目にあたる。

 当時は高度経済成長期の末期にあたり、角栄ブームという熱狂は日本全土が輝かしく発展するという希望を抱かせた。他方で、地価高騰を招くなどの副作用をもたらしている。

 田中内閣の日本列島改造を簡単に言い表せば、太平洋側に集中する富を日本海側へと分散して国土の均衡を図るということになる。そのため、田中は国土庁の創設にも力を入れた。本人は国土開発庁という名称にしたかったようだが、“開発”という言葉が嫌悪され、最終的に国土庁で落着している。

 しかし、いくら政治が民間企業に日本海側へとオフィス・工場の移転を働きかけたところで、メリットがなければ移転は進まない。

 法律の範囲内で経済活動する民間企業に対して、政治は強制力を発揮できない。それを見越していた田中は、首相就任前から自発的に企業が移転してくる方策を考えていた。その結論として、交通インフラの整備が欠かせないことを熟知していた。

 東海道新幹線が開業する1964年、田中は大蔵大臣(現・財務大臣)だった。それ以前にも自民党幹事長や通商産業大臣(現・経済産業大臣)といった要職を務め、新幹線の整備計画にも大きな影響力を発揮している。

 東海道新幹線の開業以前から、田中は「新幹線は地域開発のチャンピオン」と語り、新幹線網の拡大が日本全土を発展させることを確信していた。その信念は首相就任後も変わらず、全国各地に新幹線網を広げるべく奔走した。

 それだけ新幹線に大きな期待を寄せていたことになるが、田中は新幹線以外の鉄道とも浅からぬ縁を持っている。それは、まだ田中が駆け出しの頃にまで遡る。

長岡鉄道の再建のため迎えた3人

 1950年、田中は長岡鉄道の社長に就任するが、これは経営が危ぶまれていた会社の再建という使命を帯びていた。

 長岡鉄道が経営危機に陥った原因は、朝鮮戦争による石炭の価格高騰だった。当時の長岡鉄道は蒸気機関車による運行だったため、石炭価格の高騰は経営を揺さぶるほどの大問題になる。

 長岡鉄道を再建するには、蒸気機関車ではなく電車へ切り替える、いわゆる動力近代化が絶対条件だった。電車を走らせるには、変電所・架線などの設備を整えなければならない。そんな大掛かりの電化工事には、莫大な資金が必要になる。その融資を取り付けるために、地元住民たちは田中の政治力にすがった。

 1947年に衆議院議員に当選したばかりの田中には、地元の期待に応えられるだけの政治力はまだない。社長就任を引き受けながらも、田中は鉄道に見識のある政治家たちを長岡鉄道の顧問に据え、信用力を高めた。

 田中が長岡鉄道の顧問に迎えたのは、東條英機内閣で鉄道大臣を務めた八田嘉明、鉄道省出身で自民党幹事長の佐藤栄作、そして佐藤と鉄道省で同期だった西村英一の3人だ。すでに八田と佐藤は大物政治家だったこともあり、銀行から融資を引き出すことに絶大な信用力を発揮した。

 西村は、電化工事という実務面で力を発揮した。西村は東北帝国大学工学部で電気工学を学び、電気技術者として鉄道省に入省。敗戦直前に誕生した運輸省で電気局長に就任している。

 敗戦後、各地の鉄道は石炭不足から運行本数が激減しており、そのために電化が急がれていた。西村は電化工事を指示したが、Civil Transportation Section(=CTS:連合軍総司令部民間運輸局)が電化の必要性を理解せずに中止命令を出す。

 西村は、粘り強くCTSに電化の重要性と経済合理性を説明した。その成果もあって、1948年から電化工事が再開する。そうした経緯から、西村は電化の神様とも呼ばれる。

 西村を顧問に迎えたことで長岡鉄道の電化も現実味を帯びてきたが、そのほかにも経営安定策などの問題が山積していた。

 田中は信濃川の砂利に着目し、長岡鉄道の営業科目に砂利採取販売を追加した。戦争で、東京をはじめとする大都市では建物や道路などが損壊した。それらを修復するために、戦災復興では大量のコンクリートが必要だった。原料の砂利は飛ぶように売れる。砂利の採取と販売は、長岡鉄道の経営基盤を強固にし、そして電化にも貢献した。

 1960年に長岡鉄道は栃尾電鉄、そしてバス事業を手掛ける中越自動車が合併する。長岡鉄道はバス事業にも進出しており、中越自動車とは営業エリアが重複していた。両社は激しい火花を散らす関係にあったが、中越自動車が東急系列になったことを機に3社は競争から共存を選び、合併する。こうして越後交通が誕生する。

 越後交通では田中角栄が会長に就任。そして社長は東急の総帥・五島慶太の腹心だった田中勇が務めるW田中体制になった。田中勇は政治家になることはなく、鉄道史でも語られることが少ない。

 しかし、越後交通の社長にとどまらず東急で副社長まで上り詰めた経歴を見ても、東急創業家の五島慶太・昇父子からの信頼は絶大だったことが窺える。

 五島家からの信頼だけではなく、鉄道事業に対する手腕も確かなものがあった。越後交通に乗り込んでくる前は東急系列の上田丸子電鉄(現・上田交通)で会長を務め、越後交通を離れてからは伊豆急行に転じ、1968年には社長まで上り詰めた。

 後年、越後交通は鉄道事業から撤退する。皮肉なことに、それは田中が首相在任中の出来事だった。

 長岡鉄道の信用力を高めたことに貢献した佐藤は、その後も鉄道政策で汗をかいた。先述した東海道新幹線は、開業にあたり資金調達が最大の難関とされた。その資金調達スキームを考え出したのが、ほかならぬ佐藤だった。

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