「力道山が刺された直後に私に放った言葉は…」 現場となった「ニューラテンクォーター」元社長が真相を語る

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なぜ世界的なミュージシャンを呼べた?

山本 また音響効果にもこだわり、当時のコンサートホール設計の第一人者であった佐藤武夫氏に依頼しました。吹き抜けの天井は「ラメラ方式」という当時最先端の工法で造られたドーム型で、音に関しては来日した一流のミュージシャンたちからも絶賛されましたね。

生島 こけら落としのオープニングステージは、当時人気絶頂だったコーラスグループ、トリオ・ロス・パンチョスです。「ベサメ・ムーチョ」という有名な曲がありました。まだ無名だったお店が、世界的なミュージシャンを呼べたのはどうしてですか。

山本 後にザ・ビートルズを呼ぶことになる敏腕プロモーター、永島達司さんの協力があったからです。協同企画(現・キョードー東京)の設立者です。彼のおかげで、ナット・キング・コール、ザ・プラターズ、ルイ・アームストロング、サミー・デイビスJr.、パティ・ペイジなど、続々と海外の一流ミュージシャンがステージに登場してくれました。当時の海外の芸能事務所はマフィアのようなものでしたから、本当に来日してくれるのか、いつもハラハラドキドキでしたが、永島さんも私もまだ若く、音楽に対する強い情熱でショーを作っていました。

「女の子たちにはいつも感謝していた」

生島 まったく知らない土地での事業ですが、不安はなかったのですか。

山本 当時、赤坂は料理屋さんが中心で、いまのように賑やかではなく、ビルは山王ホテルがあるだけの田舎っぽい町でした。正直「大丈夫かな」とは思いました。実際に銀座あたりでは、「3カ月で潰れるだろう」と言われていたようです。

生島 確かに当時もいまも、夜の社交場といえば、銀座です。

山本 それでも開店してすぐに経営が軌道に乗ったのは、ショーを前面に出す方針が当たったからです。まだショービジネスが定着していない時代でした。そこへ「一流のミュージシャンはニューラテンクォーターに行かなきゃ見られない」と評判になった。銀座で遊ぶお客さんも、店の女の子たちから「ニューラテンクォーターに連れて行って」と言われ、同伴して来てくれるようになりました。

生島 なるほど、ショーが起爆剤となって、銀座のお客さんまで取り込むことができたのですね。

山本 赤坂の芸者衆も同伴で来てくれましたね。だから、女の子たちにはいつも感謝していましたよ。

生島 みんな女の子にいい顔をしたいわけだ(笑)。

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