シブがき隊、少年隊、三田寛子も同級生…中村あゆみが振り返る「明大中野高時代」 放課後は駅前のミスド、フックンのソアラで

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「翼の折れたエンジェル」(1985年)などのヒット曲があるロック界のアーチスト・中村あゆみ(56)がインタビューに応じ、38年のアーチスト生活を振り返った。また、中村は青春をテーマにしたヒット曲が多いが、少年隊やシブがき隊らと過ごした明治大付属中野高(東京)定時制での青春時代を語った。

明大付属中野高定時制ではシブがき隊、少年隊らと同級生

 青春時代の恋を歌った「翼の折れたエンジェル」は1985年のオリコン年間チャートで15位。今も聴き継がれており、YouTubeのミュージックビデオの再生回数は1300万回を超えている。

中村「私の歌が良いというより、詞のテーマが普遍的だからじゃないですか。いつの時代の若者も経験することが歌われている。それが大きいと思う」

 そうだろうか。サビの「もし俺がヒーローだったら…」は中村によるハスキーボイスのシャウトでないとハマらないのではないか。

中村「確かに私、『俺』という言葉が日本一似合う女性アーチストって言われたことがあるんですよ(笑)。そもそも女性が『僕』と歌うのは珍しくないけど、『俺』って歌う女性はいないんですよね」

 同じ1985年には中村にとって明大付属中野高定時制の1年先輩にあたる中森明菜(57)の「飾りじゃないのよ涙は」、松田聖子(60)の「天使のウィンク」、岩崎良美(61)「タッチ」などもヒットした。こういった1980年代ソングが再評価されている。どうしてだろう?

中村「良い歌が多かったんでしょうね。あの時代を担っていた作家さんである阿久悠さんや松本隆さんたちはやっぱり凄い人たちですよ。今もカッコイイ歌がたくさんあるんですけど、何を歌っているのか分からない曲もありますよね(笑)」

 中村はほかにも「ちょっとやそっとじゃCAN'T GET LOVE」(1986年)や「ともだち」(1989年)「風になれ」(1995年)などをヒットさせたが、デビューは「Midnight Kids」を歌った1984年。

 その時、明大中野高3年だった。2年生までは、昼間は営業職として働き、夜は学校へ通っていた。

中村「貴金属や毛皮などを販売していました。結構、成績が良かったんですよ。私、歌より商売のほうが得意かも知れない(笑)。デビューしてから売れるまでは営業職時代につくった貯金を切り崩していました。数百万円あったかな。それが減っていき、『やばいな』と思ったところで売れました(笑)」

 明大中野高の同級生は少年隊、シブがき隊、三田寛子(56)、石川秀美(56)ら。1学年上に中森明菜(57)、2学年上に近藤真彦(58)がいた。

明菜が学校に来にくかった理由とは

中村「少年隊ともシブがき隊とも普通に仲が良かった。マッチさんは食堂でよく見掛けました。授業は午後5時半からの1時間目から4時間目まであるんですが、3時間目が終わると、みんな食堂に行くんです。そこにマッチさんもいた。マッチさんは少年隊たち後輩の頭をポンポン叩きながら『何やってんだぁ』なんて声を掛けていました。ひときわ目立つ存在で、シブがき隊も少年隊もかすんでいましたね」

 明菜とは会わなかったのだろうか。

中村「学校には来ていたんでしょうが、私は1回も見たことなかった。仕事の都合もあったでしょうし、マッチさんの親衛隊が学校の外にも中にもいたので登校が難しかったのかも知れませんね」

 1980年代は男女アイドルの時代だったが、一方で熱烈なファンたちの自主組織である親衛隊の全盛期でもあった。

 親衛隊は勝手な応援を許さなかった。贔屓のアイドルと親密になる者が現れると、たとえ相手が芸能人であろうと敵意を燃やした。ちょっとコワイ存在だった。近藤の親衛隊は生徒の中にもいたのだ。

 一方、中村のデビューはアイドル全盛期。同級生の三田 も石川も当時はアイドル。自分もそうなろうとは思わなかったのだろうか。

中村「アイドルを否定するわけじゃありませんが、『私には出来ない』と思いました。そもそも声がアイドル声じゃないでしょ(笑)」

 ほかにも拘りがあった。

中村「『汗臭いのはダサイから嫌』と思ってました。『人生歌うなんてムリ』とも(笑)。私が最初に買ったレコードはジャズ・サックス奏者のグローヴァー・ワシントン・ジュニアのインストゥルメンタルなんですよ。そういうのが好きだったんです」

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