“2000年読み継がれる”にはワケがある 「老いへの不安」を感じた時に“過去に学ぶ”をオススメする理由

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「人生100年時代」といわれるが、65歳を過ぎれば前期高齢者、75歳では後期高齢者などと呼ばれると、行く末に不安を覚える向きも少なくないのではないだろうか。

 60歳以上を対象としたある調査では、将来の日常生活への不安について、「自分や配偶者の病気のこと」が67.6%と最も高く、次いで「自分や配偶者が寝たきりや身体が不自由になり介護が必要な状態になること」(59.9%)、「生活のための収入のこと」(33.7%)と続く(「高齢者の日常生活に関する意識調査」平成26年、内閣府生活統括官)。やはり健康とお金が何にも増して心配になるのは当然だろう。

 老年にまつわる不安や心配は今に始まったことではなく、古来、多くの著述家が向き合い考えてきた。ここでは一例として文芸誌「新潮」の元編集長・前田速夫氏の新刊『老年の読書』から一部を再編集し、古代ローマで雄弁家、文人政治家、哲学者として活躍したキケロ(前106~前43)の言葉を紹介しよう。

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 キケロは共和制末期の混乱期に、政治家の不正を弾劾して名を上げた。熱心な共和制擁護者で、ポンペイウス、オクタヴィアヌスらと結ぶが、カエサル暗殺後はアントニウスと対立して、謀殺された。後年のヨーロッパで再発見され、ルネサンス期イタリアの国民詩人ペトラルカをはじめ、マキアヴェッリ、エラスムス、モンテーニュ、ロック、ヴォルテール、モンテスキュー、さらにはニーチェ、ハンナ・アーレントと、西欧を代表する知性は続々このキケロに学び、啓発された。

 そんなキケロに、そのものずばり『老年について』(中務哲郎訳、岩波文庫)という著作がある。

 同書が書かれたのは、カエサル暗殺(前44年3月15日)の直前であろうと推定されている。時に、62歳。翌年には、キケロ自身がアントニウス配下の者に暗殺されている。不穏な政情のさなかである。見かけの悠々たる筆致は、それだけになお、こうしたものを、こうした形で残しておきたかったと考えられる。

 すぐに目につくのは、プラトン以来の対話篇のスタイルが採用されていることだ。キケロの時代から遡る紀元前150年、小スキーピオー、ラエリウスという2人の青年が質問するのに対して、84歳の大カトーが答えるという設定である。大カトーは、農民の出ながら軍功を挙げて、中央の政界で重きをなした弁論家。豪胆で質実な生きざまは、キケロが尊敬してやまぬところで、彼は自分をこの大カトーに擬したかったのだろう。

 以下、有為の青年が口々に、「たいていの老人にとって、老年は厭わしく、エトナの火山より重い荷を負っているほどなのに、あなたは少しも苦にしておられない」「いかなる方策をもってすれば老いの道行きを最も易く耐えることができるか、それを教えていただきたい」と懇望するのに、大カトーが答えた言葉を書き出してみる。

 ***(以下引用)***

 わしの理解するところ、老年が惨めなものと思われる理由は四つ見出される。第一に、老年は公の活動から遠ざけるから。第二に、老年は肉体を弱くするから。第三に、老年はほとんど全ての快楽を奪い去るから。第四に、老年は死から遠く離れていないから。

 人生の行程は定まっている。自然の道は一本で、しかも折り返しがない。そして人生の各部分にはそれぞれその時にふさわしい性質が与えられている。少年のひ弱さ、若者の覇気、早(はや)安定期にある者の重厚さ、老年期の円熟、いずれもその時に取り入れなければならない自然の恵みのようなものを持っているのだ。

 肉体は鍛錬して疲れが昂ずると重くなるが、心は鍛えるほどに軽くなるのだ。

 こうして人生は知らぬ間に少しずつ老いていく。突如壊れるのではなく、長い時間をかけて消え去っていくのである。

 いわゆる心が自分自身と共に生きる、というのは何と価値あることか。まことに、研究や学問という糧のようなものが幾らかでもあれば、暇のある老年ほど喜ばしいものはないのだ。

 われわれ老人には、多くの遊戯の中から骨牌(こっぱい)(カルタ・引用者註)と骰子(さいころ)を残してくれればよい。いや、それさえどちらでもかまわぬ。

 一見取るに足らぬ当たり前のようなこと、挨拶されること、探し求められること、道を譲られること、起立してもらうこと、公の場に送り迎えされること、相談をうけること、こういったことこそ尊敬の証となるのだ。

 死というものは、もし魂をすっかり消滅させるものならば無視してよいし、魂が永遠にあり続ける所へと導いてくれるものならば、待ち望みさえすべきだ。第三の道は見つけようがないのだ。

 時間も日も月も年も過ぎて往(ゆ)く。そして往時は還らず、後来は知る由もない。

 束の間の人生も善く生き気高く生きるためには十分に長いのだ。

 老人が死ぬことほど自然なことがあろうか。

 生を嘆くのはわしの気に染まぬ。また、生きてきたことに不満を覚えるものでもない。無駄に生まれてきたと考えずに済むような生き方をしてきたからな。そしてわしは、わが家からではなく旅の宿から立ち去るようにこの世を去る。

 魂たちの寄り集う彼(か)の神聖な集まりへと旅立つ日の、そしてこの喧騒と汚濁(おじょく)の世から立ち去る日の、何と晴れやかなことか。

 わしにとって老年は軽いのだ。そして煩わしくないどころか、喜ばしくさえあるのだ。

 人生における老年は芝居における終幕のようなもの。そこでへとへとになることは避けなければならない、とりわけ十分に味わい尽くした後ではな。

 ***(引用終わり)***

 格別尊いことが説かれているのではない。仮にこうしたことが、功成り名遂げた人間の口から自信たっぷりに聞かされるなら、反撥するだけかもしれない。しかし、心屈するとき、何もかもが嫌になって放り出したくなったとき、虚心でこれらの言葉に向かうと、いまこれを書き写している私がそうで、知らず知らず心が晴れ晴れしてくる。

『老年の読書』で紹介している名著たち

『老年の読書』で紹介している名著たち(他の写真を見る

 むろん、われわれのような無名でちっぽけな人間と違って、世界史上に令名を残した偉人、哲人である。その言葉の一つ一つ、有難くないわけがないのだけれど、この落ち着きと、軽やかで澄みわたった境地はどうだ。実人生ではむしろ深謀遠慮と政治的な駆け引きに明け暮れ、最後の最後まで心穏やかでない時を過ごしていただけに、よけい感心してしまう。

『老年の読書』一部を再編集。

令和3年「簡易生命表」厚生労働省
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life21/dl/life18-15.pdf

「高齢者の日常生活に関する意識調査」平成26年、内閣府生活統括官
https://www8.cao.go.jp/kourei/ishiki/h26/sougou/gaiyo/pdf/kekka1.pdf

デイリー新潮編集部

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