「ハイサイおじさん」の喜納昌吉、なぜ沖縄から嫌われる? YMOにも影響を与えた異能の音楽家の半生

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YMOにも影響

 当時「英米の猿まねではない日本土着のロック」を追求していたこの二人によって、「ハイサイおじさん」は「沖縄土着のロック」として発見され、以後の彼らの音楽活動に決定的な影響を与えた。久保田は1975年のアルバム「ハワイ・チャンプルー」で同曲をカバーし、細野は1976年のアルバム「泰安洋行」で同曲にインスパイアされた「Roochoo Gumbo」を発表した。

 昌吉の音楽的アプローチは、細野が1978年に高橋幸宏、坂本龍一と結成するYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の「エスノ&テクノ」という当初のコンセプトにもヒントを与えている。

 二人の話に共感した音楽プロデューサーの三浦光紀はまもなく沖縄に飛んで昌吉と交渉し、1977年には最初のアルバム「喜納昌吉&チャンプルーズ」(チャンプルーズは昌吉のバックバンド)を制作している。これが大評判となり、昌吉は「沖縄の歌手」ではなく「民謡にロックを採り入れた革新的なミュージシャン」として広く紹介されることになった。

世界中でカバー作が続出

 喜納昌吉の音楽は海外のミュージシャンからも関心をもたれた。1980年には、アメリカ音楽の古層を掘り起こして再生する独自のアプローチで注目されていたライ・クーダーが参加した「BLOOD LINE」を発表したが、このアルバムに収録された「花~すべての人の心に花を~」は、国内はもとよりアジアを中心に世界中でカバー作が続出した伝説の大ヒットだ。

 日本音楽著作権協会(JASRAC)に登録されているだけで200件を超えるカバー作が確認され、学校の合唱曲に採用された例もあるタイ、周華健(エミール・チョウ)のカバーが大ヒットした台湾を始め、中国、韓国、ベトナム、南北アメリカ、マダガスカルなどで数百の録音例(無許可使用を含む)があるといわれている。2006年には、文化庁が選定した「日本の歌百選」(実際には101曲)に選ばれたが、沖縄の音楽家が自作自演した作品はこの曲だけだ。

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