「ハイサイおじさん」の喜納昌吉、なぜ沖縄から嫌われる? YMOにも影響を与えた異能の音楽家の半生

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排除したい特別な事情

 たとえば沖縄は今年「本土復帰50周年」を迎え、大規模な行事やイベントがいくつも開催されたが、沖縄の生んだ最大のアーティストの一人である昌吉の存在はことごとく無視された。

 昌吉の代わりに、生きのいい沖縄出身の若手アーティストを起用するならわかるが、最大の目玉となったのは、ヒット曲「島唄」の作詞・作曲者で山梨県出身の宮沢和史(元THE BOOM)だった。本土の音楽業界でも、復帰の年1972年から表舞台で活躍してきた昌吉を欠いた「復帰50周年記念行事」に首をかしげる人は多い。

「音楽業界でも喜納昌吉の評判がいいわけではないが、それは政治的・宗教的な発言が過剰に思える時期があったからです。でも、多くのミュージシャンが彼の音楽をリスペクトしている。彼のおかげで音楽に開眼した、といってはばからない後輩も多い。無視していいアーティストではありません。そう考えると、今年沖縄で起こっていることは異常です。差別とは思いたくないが、沖縄には、喜納昌吉を排除したい何か特別な事情でもあるんでしょうか」(東京在住の音楽プロデューサー)

 そこで、喜納昌吉のキャリアをたどりながら、彼が疎んじられる理由を探ってみようと思う。

刑務所で大ヒットを知った喜納昌吉

 昌吉は、1960年代後半の沖縄でもっとも人気のあった民謡歌手・喜納昌永(しょうえい)の四男として1948年にコザ市(現・沖縄市)で生を受けた。成人する頃には自作の「ハイサイおじさん」を父のステージで歌って人気歌手の仲間入りを果たしている。「ハイサイおじさん」は、沖縄独自のリズムがベースだが、民謡の枠を逸脱したロック・テイストのダンサブルな楽曲である。民謡界のリーダーたちは顔をしかめたが、沖縄の若者や米兵は喜んで受け入れた。

 沖縄が本土に復帰する1972年には「ハイサイおじさん」が地元のレコード会社からシングル盤で発売されるが、経営する飲食店が米軍絡みの麻薬取引の舞台だったせいで、昌吉は同年1月に逮捕され裁判で実刑判決を受け、復帰の瞬間は刑務所で迎えた。その間に「ハイサイおじさん」は県内で大ヒットするが、その事実は刑務所に面会に来た母から知らされたという。

 1973年春に昌吉は出所するが、その頃には「ハイサイおじさん」は本土の音楽業界でも評判になりつつあった。

 石垣島でこの曲を聴いてピンときたミュージシャンの久保田麻琴がシングル盤を東京に持ち帰り、先輩ミュージシャンの細野晴臣に聴かせたところ「驚いて椅子から転げ落ちた」というのは業界では有名なエピソードである。

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