「中森明菜の真実」の著者が語る「少女A」「難破船」秘話 時任三郎と加藤登紀子の重要な役割

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「難破船」で涙を流した

 1987年9月、19枚目のシングルとしてリリースされた「難破船」は、関係者の間で彼女が情念を出し切った最高の曲と言われている。

「これは、加藤登紀子さんのアルバム『最後のダンスパーティ』(1984年)に収録されていた曲です。加藤さんは、ある時偶然明菜が22歳の誕生日を祝ってもらっている様子をテレビで見たといいます。その時彼女は、おめでとうと言われているのに、ありがとうと言わずに、22歳の何がおめでたいんですか、と不機嫌そうに答えた。その態度が何だか迫力があって、カッコ良かったと思ったそうです」

 加藤は自分が失恋した時、誕生日でお祝いされても「何がおめでたいの?」と思ったことがあったという。当時の自分と明菜を重ね合わせたようだ。

「それで自ら『難破船』を提供したんです。仕事で一緒になった際、『あなたにピッタリの曲があるんだけど、歌ってみません?』と言って明菜にカセットテープを渡したそうです。その後、加藤さんのコンサートに、明菜は花を届けたといいます。メッセージはなにもなかったのですが、それがお受けしますという返事だったのです」

「難破船」は、オリコンチャートで1位になった。当時の人気番組「ザ・ベストテン」では5週にわたってトップに輝いた。

「1988年1月、『夜のヒットスタジオ』で明菜は『難破船』を熱唱しました。ですが、この時はいつもと雰囲気が違っていて、マイクを持つ手が震え、歌い終わった後、涙を流したのです」

 当時、明菜は近藤真彦と交際中だった。1年半後の1989年7月11日、近藤のマンションの浴室で左ひじの内側をカミソリで切って自殺未遂をしている。

「彼女は感情移入して歌うタイプです。あの時、涙を流したのは、近藤との交際がうまくいっていなかったことが大きく関係していると言われていました」

 その後の明菜は、トラブルが相次いだ。1990年には、女性週刊誌に対して、許可していない水着写真を掲載されたことから、2億円を請求する損害賠償裁判を起こした。1993年は、担当マネージャーが大麻取り調べ法違反で取り調べを受け、自宅に家宅捜索が入った。何度もトラブルを起こす明菜に対して1999年、所属事務所は契約を解除した。2000年代に入ってからは闘病生活が続き、2017年を最後に活動を停止している。

「もっとも今年8月、新たに個人事務所を設立しています。NHKは彼女を紅白に出場させるべく動いていると言われていますが、どうでしょうかね。彼女は完璧主義者ですから、新曲もあるわけではありませんし、そう簡単に紅白に出るとは思えませんね」

デイリー新潮編集部

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