「五輪汚職」で悪者扱い 「大広」の知られざる「功」と「罪」

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一体、何の会社か?

 私が大広の存在を初めて知ったのは、1983年だった。

 1983年に開催された「第一回ヘルシンキ世界陸上」は、スポーツの商業化の序曲ともなったスポーツ・イベントだ。世間では繰り返し、「1984年のロサンゼルス五輪が商業化の始まり」と言われるが、その前年に開催された第一回世界陸上も、その露払いとでも言うのか、かつてない規模で陸上の世界大会が世界に発信され、商業化の可能性を証明した大会だった。

 中でも、選手たちが胸と背中につけたゼッケンは、広告関係者たちに大きなインパクトを与えた。選手のゼッケンに企業名が入るのはそれ以前からあった広告手法だが、あの大会のゼッケン・スポンサーほど、世界中にインパクトを与えた前例はなかった。

 視聴者の誰もが、ゼッケンに記された「TDK」の文字に目を奪われ、「一体、何の会社か?」ということに関心が集まり、瞬く間に知名度を上げたのだ。ゼッケンに企業名を入れたからといって、どれほどメリットがあるのかまだ半信半疑だった時代に、理屈抜きの広告効果を見せつけた。それが、ヘルシンキ世界陸上のTDKだった。もちろん、日本人なら大半がカセットテープなどのメーカーだと知っていたが、世界的にはまだ知名度が低かった。TDKの名を胸に、カール・ルイスが3冠王に輝き、棒高跳びの鳥人セルゲイ・ブブカが優勝し、地元の星ティーナ・リラクがやり投げで最終6投目に劇的な逆転優勝を遂げた。感動とともに、TDKのロゴが人々に記憶された。

第一回だからこそ

 TDKは当初一度だけの予定だったが、その効果の大きさもあり、以後もずっとゼッケン・スポンサーを続けている(第二回からは男女が別スポンサーになったため、TDKは男子選手の胸と背中に記されている)。すでに2029年まで、ワールドアスレチックス(旧世界陸連)および世界陸上をサポートする契約を結んでいる。

 この伝説的な「TDKゼッケン」の仲介役が大広だった。

 私は、まだ駆け出しだった1983年秋、世界陸上を終えた直後に大広の担当者らを取材し、広告雑誌『宣伝会議』に次の原稿を書いた。

《ヘルシンキ陸上のプロモーションを担当するウエストナリー・ジャパン代表・ジャック坂崎氏が、広告代理店・大広の担当者とTDKを訪ねたのは昨年春のことだった。約1時間の説明を受けたTDKの広報部長・O氏(注・本原稿ではイニシャルで記す)は、その日のうちに「オフィシャル・サプライヤーになる」と決断を下し、しかも「選手全員のゼッケンを買いたい」というリクエストを坂崎氏に出している。(中略)瞬間的に何かを直感したO氏は、わずか数時間のうちにゼッケンにこだわったうえで、オフィシャル・サプライヤーを受ける方針を決めたのである。

 TDKを訪ねる前に、坂崎氏はすでに何社もの日本企業に話を持ちかけていた。しかし、「日本企業は初モノに弱い。まずリスクを心配する」――坂崎氏をしてこう嘆かせるほど反応は鈍かった。それに対して、

「第一回の大会だからこそ、我われは乗り出す気になったのです」――TDKの積極的な姿勢と判断力が、まず“勝利”の第一歩だったわけである》

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