創業120年を迎えた「木下サーカス」の今 移動費用は1回3000万円、コロナ禍でも退職者ゼロの経営術

エンタメ

  • ブックマーク

空中ブランコから落下

 光三氏の次男・唯志氏が木下サーカスに入社したのは、1974年だった。

「私は明治大学経営学部に入学して、就職先は三和銀行に内定していました。ところが、父が腎臓結石で入院したため、家業を継ぐことにしたのです」

 唯志氏は、木下サーカスに入社する前、ヨーロッパのサーカスを1カ月かけて視察した。

「木下サーカスを世界一のサーカスにしようと思ったからです。ドイツのクローネサーカス、スイスのクニーサーカス、イタリアのアメリカンサーカス、フランスのシルクディベール。アメリカにも渡り、リングリングサーカスも見ました。印象に残ったのはクローネサーカスでした。ミュンヘンの常設館は超満員の大盛況でした。象やサイ、キリン、シマウマの調教が見事でしたね」

 彼は、木下サーカスに入社後、新人団員として空中ブランコの特訓を行ったという。

「空中ブランコは、1カ月でマスターしました。ところが、26歳の時、公演中に空中ブランコから落下してしまったのです。足から落下したのですが、空中ブランコの下に張ってあるネットが硬くて、第7頚椎を損傷しました。頭から落ちていたら即死でしたね」

 さらに、事故の後に風邪をこじらせたが、無理に公演に出演したことが祟って重い肺炎を患ってしまう。

「入退院を繰り返しました。そんな時、奈良県にある断食道場の記事が目に止まり、断食修行をしたのです。3年間で6回修行すると、微熱がなくなり、29歳で職場に復帰することができました」

 ただし、現場に出るのは辞め、営業職にまわったという。木下サーカスは海外から高く評価されたため、唯志氏は、モナコで毎年1月に開催される世界で最も有名なサーカスの国際コンクール「モンテ・カルロ・サーカス国際フェスティバル」に毎年招待されるようになった。そこで、世界のアーティストとの交流を深めていったという。

 木下サーカスに大きな転機が訪れたのは1981年。神戸ポートアイランド博覧会に参加した時、世界のトップクラスのアーティストを招聘したことだ。これで団員の士気が高まり、木下サーカスの成長の鍵になると確信した。以後、世界のアーティストと契約するようになったという。

 1990年2月、唯志氏は4代目社長に就任した。

「世界一のサーカスを実現するために、ヨーロッパから積極的にアーティストを招聘しています。振付師は宝塚歌劇団から招き、演出は、USJ(ユニバース・スタジオ・ジャパン)の演出を手掛けたジョン・フォックスです。現在、日本人演技者は約60人、海外9カ国のアーティストが約20人、営業が20人となっています」

 唯志社長は、日本のサーカスとして初めて大学の新卒者を採用した。

「日本体育大学など、体操経験者が多いですね。勿論、一般の大学の出身者もいます」

次ページ:象の病院

前へ 1 2 3 4 5 次へ

[3/6ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。