創業120年を迎えた「木下サーカス」の今 移動費用は1回3000万円、コロナ禍でも退職者ゼロの経営術

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新聞社とタイアップ

 以後、木下サーカスでは馬だけでなく、アシカ、象、チンパンジー、ライオンが活躍するようになった。1953(昭和28)年には、団員が本業以外で大活躍した逸話が残っている。

「5月に出雲大社で公演が行われ、ある朝象が異様な声で泣き出したのです。驚いた団員が外へ出てみると、出雲大社の社務所が燃えていました。サーカス小屋に火が燃え移ることを心配した団員たちは、消火活動に励みました。曲芸で鍛えた身の軽さから、消防団員を凌ぐ活躍を見せ、本殿への延焼を防いだため、文化財保護委員会から感謝状が贈られました」

 木下サーカスを会社組織にしたのが、1948(昭和23)年、二代目社長に就任した光三氏である。彼は、大阪で薬製造業を営む菅納家の三男で、唯助氏の長女と結婚、婿養子となった。

「光三は私の父ですが、1954(昭和29)年には、これまで丸太小屋だったサーカス小屋を、日本で初めてテントにしました。これだと設営が簡単にできるし、軽量なので移動も楽になったのです。1961年、木下サーカスを会社法人にしました。年中無休だったサーカスに週休制を取り入れ、団員は社員となり、月給やボーナスを支給しています。そして、新聞社とのタイアップにより、木下サーカスの経営を盤石なものにしました。読売新聞と提携し、顧客動員数を増やしました。新聞の購読者へ景品として、木下サーカスのチケットを配ったのです。公演先の地方新聞にもこのやり方をひろげました」

 戦前からあった40団体のサーカスが、戦後、次々と廃業に追い込まれたのは、近代的な経営をしていなかったからだという。

「昔からのサーカスの興行主は、経営に関してはドンブリ勘定でした。そのため、創業者1代で廃業するところが多かった。後継者も育ちませんでした」 

 1968年、司法試験を目指していた光三氏の長男・光宣氏が木下サーカスに入社した。1983年、3代目社長に就任する。

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