【鎌倉殿の13人】謀略家か知恵者か…三浦義村が最後まで北条家に付いていった謎に迫る

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 小栗旬(39)が演じる主人公・北条義時の人柄がどんどん悪くなり、登場人物たちが次々と死んでいくNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。変わらないまま生き抜いているのが、山本耕史(45)が扮している三浦義村だ。実際はどんな人物だったのか。史書を基に浮かび上がらせてみたい。

北条義時、和田義盛と従兄弟

「鎌倉殿の13人」で三浦義村の出番はそう多いほうではない。だが、印象は強い。北条義時を上回るような知恵や胆力を見せているからだろう。とぼけたところやインテリヤクザめいた面があるのもいい。

 今後の物語が史実に沿って進むとすれば、義村の存在感はどんどん増してゆく。数々の事件のキーパーソンになる一方、御家人で最大の勢力を誇るようになるからだ。

 そのうえ、義時より15年、政子(小池栄子)より14年も長く生きたから、最終話のラストに登場するのが義村である可能性すらある。さて、義村の実像はどうだったのだろう。

 相模国(現・横浜市と川崎市を除いた神奈川県)の豪族・三浦義澄(佐藤B作)の跡取りだったのは知られている通り。1168年生まれとされているが、はっきりしない。母親は伊東祐親(浅野和之)の娘なので、同じく母親が祐親の娘である義時とは従兄弟だった。

「鎌倉殿――」での義村は義時に対して一貫して偉そうにしている。けれど義時は1163年生まれ。義村のほうが5歳ほど年下なのだ。

 和田義盛(横田栄司)も義村の従兄弟。義盛の父親・杉本義宗が義澄の実兄だった。だから義盛も三浦一族だが、相模国三浦郡和田郷(現・神奈川県三浦市初声町)に城を構えたことから、和田姓を名乗った。三浦一族の棟梁は義村だ。

藤原定家が謀略家と見る

 義村が目立った動きを見せ始めるのは頼朝が他界した1199年1月以降である。同10月、結城朝光(高橋侃)が、「忠臣は二君に仕えずと申す」と口にしたことを梶原景時(中村獅童)が問題視し、頼家に讒言した時、朝光が真っ先に相談したのが義村だった(鎌倉時代の公式歴史書『吾妻鏡』)

 義村は朝光を救うため、景時弾劾を訴える御家人の署名を集めた。賛同者は瞬く間に66人にもなった。1200年1月、景時は鎌倉から追放された。「鎌倉殿――」では第28話で描かれたエピソードである。

 もっとも、大物公家・九条兼実の日記『玉葉』に書かれている内容はだいぶ異なる。景時から頼家への朝光に関する讒言はなかった。景時から頼家への報告はあったものの、中身が違った。景時は頼家に対し「北条家が頼家の弟の千幡(後の実朝、柿澤勇人)を将軍にしようとしている」と伝えたという。

『吾妻鏡』と『玉葉』のどちらが正しいのかは分からない。ただし、義村が自分や外戚の北条家にとって好ましからざる人物だった景時を、署名活動という無血戦術で排除したのは確か。知恵者だった。

 京の公家で大物歌人だった藤原定家は義村について自らの日記『明月記』にこう書いている。

「八難六奇の謀略、不可思議の者か」(『明月記』)

 八難と六奇は中国の前漢期の名軍師2人を指す。定家は義村がそれと同等の謀略家で不思議な人物だと見ていた。

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