11人圧死の「明石歩道橋事故」から21年 遺族が “悲しいだけ”じゃない本を出版した理由

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124人が死亡した過去最悪の群衆雪崩

 過去最悪の群衆雪崩は1956年の元旦に新潟県の弥彦神社で起きた事故である。宮司がまいた餅に多数の参拝者らが群がり、玉垣が壊れて総崩れとなり人々が階段から落下し、124人が死亡した。

 この2年前には、東京・二重橋で正月の一般参賀に押し掛けた16人が亡くなった。戦前では1934年に旧国鉄京都駅の跨線橋が兵隊などで溢れて壊れ、77人が死亡した。

 弥彦神社の事故では交通整理に多くの警官が動員され、境内には警官がほとんどいなかった。しかし、刑事罰を受けたのは神社関係者だけ。まさに明石の事故を思わせる。

 明石歩道橋事故の遺族らは事故の翌年、弥彦神社の慰霊碑を訪れ、19歳の娘を亡くした高齢の母親に会う。歩道橋事故で8歳の二女・優衣菜ちゃんを奪われた三木清さんは「神社の事故から半世紀近く経っても『娘のことは1日も忘れない』と言っていた。自分も一生、優衣菜のことを背負っていくんだと感じた。お母さんには『私たちの教訓が生かされなくてごめんね』とも言われたんです」と振り返る。

悲しいだけの本にしたくない

 さて、事故から21年の今年、『明石歩道橋事故 再発防止を願って ~隠された真相 諦めなかった遺族たちと弁護団の闘いの記録』が自費出版された。編集の中心となった遺族は、白井義道さんと有馬正春さんだ。

 当時75歳だった母・トミコさんを失った白井さんは「事故ではなく事件なのです。私たちの願いである『真相究明と再発防止』につなげる本にしたかった。だから、遺族らの手記だけを記載して悲しい出来事というだけにはしたくなかった。絶対に締め切りに間に合わせようと、鬼になって編集しましたよ」と語る。女手一つで白井さんを育てたトミコさんは絵が好きで、本にも素敵な挿絵が何枚か載る。

「きっと絵の題材を探しに花火に行ったんでしょう」と振り返る。

 高齢者の残る犠牲者は71歳だった草替律子さん。潰されかけた見知らぬ幼児を高く抱え上げて「この子を助けてー」と叫びながら自らは力尽きたのだ。幼児は助かった。

 当時、痣(あざ)だらけで腫れあがった痛々しい律子さんの足の写真が写真週刊誌に載った。「真実を知ってほしかった」と話していた夫の与一郎さんも今は鬼籍だ。

 有馬さんは、9歳の長女・千晴ちゃんと7歳の長男・大ちゃんを亡くした。事故の後で生まれたお子さんは今、18歳と15歳になったという。有馬さんは「民事裁判の勝訴などで、みんなで基金を積み立て、そこからも費用を賄いました。1人、2人では本の作成はできない。まだ記憶がしっかりと残っているうちにということで、多くの人が寄稿してくれました」と語る。

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