真犯人が落としたのか?現金でパンパンに膨らんだ「黒革の財布」の謎【袴田事件と世界一の姉】

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財布の中身

 財布はバス営業所から吉原警察署に預けられた。担当の女性署員が調べると、現金8万3920円が出てきた(内訳は一万円札8枚、千円札3枚、五百円札1枚、百円札2枚、百円玉1個、五十円玉2個、十円玉2個)。

 今なら100万円近い大金だ。財布の中からは、なぜかライターに使う「火打石」がケース入りで3個出てきた。そして二つ折りにしたハガキも出てきたが、切手は貼っていなかった。

 ハガキには印刷文で「謹んでご案内申し上げます」と前書きされ、こう書かれていた。

《去る六月三十日早朝出火に際しましてはさっそくご丁寧なお見舞いを賜り厚お礼申し上げます。早速お伺いもうし上ぐべくですが何かととりこんで居ますので失礼ながら書面をもって御礼申し上げます。なお、工場は無事でありましたので七月二日から平常通り経営いたしております。併せてご案内申し上げます。こがね味噌 金山寺醸造元 橋本藤作商店 代表社員 橋本藤作》

 橋本藤作さんは殺されたこがね味噌の橋本藤雄専務の実父である。事件当時は入院していたが、息子一家の葬儀では杖を突いて涙する痛々しい姿が報じられていた。

 凶悪事件で息子の家族4人を失った藤作さんが、火事へのお見舞いへのお礼として用意したハガキと思われたが、宛先は書いていない。藤作さんの財布ではなかった。宛名を書くはずの所に、カタカナで「ヨウゲン」と毛筆で書かれていたが意味不明だった。

 肥料のヨーゲンなら聞くが、ヨウゲンという言葉は聞いたことがない。山本徹美・著『袴田事件 冤罪・強盗殺人放火事件』(2004年、新風舎)によれば、「清水の次郎長」で知られる清水市には当時まだ「博徒」が少なからず存在し、山本氏がある博徒に聞くとヨウゲンは「明言(妙元)の転化ではないか」という。この地方では、運を呼び込むために、葬儀の案内状のような不吉な書簡には、神通力という意味である「明言」と書いて、石を包んでお守りにするとか。

「ヨウゲン」の意味はともかく、当時の静岡県警関係者なら当然、財布は大事件に関係する重大なものだとわかる。黒革の財布は中身ごと、こがね味噌事件の捜査本部へ送られて鑑識に回された。鑑識の結果、「指紋は不検出」「一万円札2枚にルミノール反応」と判明した(ルミノールとは血液の痕跡を調べるための試薬で、血液成分を感知すると光を発する)。

持ち主は見つからない

 金額は橋本専務宅から奪われた金額とほぼ一致している。事件後、発見までの間に少し交通費などに使ったのか、という程度の差額だ。しかも、お札からはルミノール反応まで出た。

 事件時、高齢で病弱だった藤作さんの行動範囲は広くはない。彼と接していた人物は極めて限定されている。捜査本部は、拾得物の事実を知った後、バスの乗客に当たったが、「落とした」という人はいなかった。大金にもかかわらず警察に届ける人がないのは、落とし主だと知られるとまずい事情があると考えるのが普通だ。

 殺された橋本専務の実父の名があり、強奪されたのとほぼ同じ金額が入っていた。強奪したものの、札には製造番号もあり、足が付くので使うこともできず、そっとバスに置いて遺失物とした可能性も高い。ハガキは多数用意されたはず。何者かが1枚を盗み出し、財布に入れて持ち歩き、落とし物としてバスに置いたはずだ。

 どう考えても大事件に結び付く可能性の高い「落とし物」。こんなものが転がり込んでくれば、捜査本部は「すわっ」と色めき立つはず。ところがそうならなかった。

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