【鎌倉殿の13人】慈悲深い、日本三大悪女と言われた「北条政子」と「小池栄子」の共通点

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3大悪女と呼ばれる理由

 心配りがあり、政治力と人心掌握力を持ち、非情にもなれる――。

 政子は優れたリーダーと思えるが、日野富子(室町幕府第8代将軍・足利義政の正室)、淀殿(豊臣秀吉の側室で同秀頼の母)と並び、「日本3大悪女」と呼ばれる。どうしてか。

 まず、1203年に頼家が比企能員(佐藤二朗、53)に時政の討伐を許した際、この密議を障子越しに盗み聞きして、そのまま時政に伝えたからだろう(『吾妻鏡』)。相手の動きを知ることが出来た時政は先手を打って能員を殺害。比企一族を滅亡させた。

 この直後、頼家は伊豆国修善寺(静岡県伊豆市)に幽閉される。翌1204年には北条家が放った刺客によって惨殺された。

 当時、頼家と北条家の間には埋められない溝があった。頼家は時政の討伐を許したのだから、そうなるのも仕方がない。とはいえ、結果的に政子が我が子を見殺しにする形になった。これも悪女評につながっている。

 また政子は弟の北条義時(小栗旬、39)と一緒になって時政と継母・牧の方(宮沢りえ、49)を鎌倉から追放した。理由はともあれ、これも悪女評の理由になっている。1205年のことだった。

 なぜ時政と牧の方は鎌倉を追われたのか。執権だった時政は同年6月、自分の娘婿である畠山重忠(中川大志、24)を滅亡させた。謀反の罪をデッチあげてのことだった。『吾妻鏡』によると、重忠討伐を命じられたのは義時と時房(瀬戸康史、34)の息子2人。義時は反対したものの、命じられたら従うしかなかった。

 時政が重忠を討たせた本当の理由は、重忠とその息子の重保が気に食わなかったからだった。1204年、やはり自分の娘婿で、頼朝の猶子だった平賀朝雅(山中崇、44)と重保が口論をしたことが面白くなかった。当時、時政と牧の方の子供・政範が16歳で病死したばかりで、2人の精神状態が良くなかったとされている。

 さらに時政は広大な武蔵国(現・東京都、埼玉県、神奈川県北東部)の支配権を握りたかったのだと見られている。当時の重忠は武蔵国の留守所惣検校職(国の在庁官人の長官)だった。

 重忠を討った後、義時は時政に謀反の事実はなかったと報告した。御家人たちの間でも謀反はデッチあげだったという認識が広まる。時政への不満が高まった。

 自分への風向きが悪くなっていると感じた時政は牧の方と一緒に奇策を考え出す。朝雅を4代目の将軍にしようと目論んだのだ。

 朝雅が将軍になったら、幕府全体をコントロールできると考えた。このため、実朝の暗殺を計画する。同年7月の「牧の方事件」である。

 だが、無茶にも程があった。頼家から権力を奪い、その弟で12歳だった実朝を3代将軍に据えたのはほかならぬ時政なのだから。それから2年しかたっていなかった。

 時政らの陰謀を知った政子は御家人たちに実朝をただちに保護するよう命じた。一方、時政は全ての役職を剥奪されて失脚する。そうでなくても御家人たちの心は時政から離れていた。時政は牧の方と出家した。

「鎌倉殿――」から大泉洋による頼朝が消えたことを淋しく思っている人もいるだろうが、政子の活躍の場面が増え、頼朝ロスを埋めてくれるはずだ。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。大学時代は放送局の学生AD。1990年のスポーツニッポン新聞社入社後は放送記者クラブに所属し、文化社会部記者と同専門委員として放送界のニュース全般やドラマレビュー、各局関係者や出演者のインタビューを書く。2010年の退社後は毎日新聞出版社「サンデー毎日」の編集次長などを務め、2019年に独立。

デイリー新潮編集部

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