【鎌倉殿の13人】慈悲深い、日本三大悪女と言われた「北条政子」と「小池栄子」の共通点

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実朝暗殺で揺れる幕府を支える

 実朝暗殺は幕府の土台にヒビが入っても不思議ではない重大事件だった。頼朝の子である将軍が孫に殺されてしまったのだから。

『愚管抄』によると、公暁は実朝を斬る際、「親の敵はこう討つのだ」と怨嗟の言葉を口にしたというから、強い意志を抱いた犯行だった。御家人たちに衝撃が走った。

 だが、政子は気丈だった。『吾妻鏡』によると、政子は暗殺当日、御家人たちに公暁一派の糾弾を命じた。御家人たちの多くは実朝の死を悲しみ、暗殺翌日には100人余も出家したが、政子は冷静に対処した。

 暗殺から約半月後、政子は政所執事(幕府政務機関の上級職員)の二階堂行光を京へ派遣する。4代将軍は皇族に就いてもらおうと考えたためだ。そうなれば幕府は安泰だと踏んだ。政子には頼朝に負けない知恵と行動力があった。

甥の殺害を指示

 非情な面があったところも頼朝と重なる。行光の上洛と同時期、駿河国(現・静岡県中部、北東部)で謀反の動きがあった。それを知ると、ただちに鎮圧するよう命じた。首謀者は殺害するよう指示した。

 当たり前の命令のようだが、首謀者は自分の甥・阿野時元だった。頼朝の弟・阿野全成(新納慎也、47)と自分の妹・阿波局(宮澤エマ、33)の息子である。

 時元は源氏と北条氏の血をどちらも受け継いでいるため、自分こそ正統な後継者と考えていた。だが、政子にその気はなく、次の将軍はあくまで皇族に任せたかった。

 幕府のこととなると、情に流されなかった。

 政子は後鳥羽上皇(尾上松也、37)に対し、上皇の皇子・雅成親王か、同じく頼仁親王に4代将軍になって欲しいと頼んだ。だが、上皇は断る。

 結局、摂家(公家の家格の頂点に立つ5家)の藤原頼経を将軍として迎え入れた。頼経は頼朝の妹・坊門姫の曾孫なので、頼朝の遠縁でもあった。

 ひとまず後継者問題は片が付いたが、当時の頼経は2歳。判断力が付くまでは誰かが代わりに政権を運営しなくてはならない。その役目を果たせるのは政子しかいなかった。こうして「尼将軍」は誕生した。

 朝廷から征夷大将軍を任ぜられた訳ではないが、将軍と同等の実力者だった。1225年に政子が他界した後に書かれた歴史書『鎌倉年代記』(1331年ごろ)などには政子も歴代将軍の1人として名が記載されている。陰に隠れた存在ではなく、表立って政治を動かした。

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