【鎌倉殿の13人】頼朝死す その後、何が起きたのか

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 大泉洋(49)が演じている源頼朝に死期が近づいた。言うまでもなくNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のことだ。武家社会のトップ・頼朝の死により、何が起きるのか。源頼家(金子大地)が跡を継ぐことを比企能員(佐藤二朗)は心待ちにするが、どうしてなのか。史書を辿りたい。

頼朝の葬送

「鎌倉殿――」で頼朝の死までのカウントダウンが始まった。

 前回25話で頼朝は落馬。相模川橋(神奈川県茅ヶ崎市)の新造に伴う橋供養への出席し、鎌倉に帰る途中だった。1198年12月27日の出来事である。

 落馬前の頼朝は口調がスローになった。

「初めて……北条の館へ来た時……」

 次いで右手がしびれ、やがて意識を失った。脳疾患の症状に当てはまる。季節は冬。寒い時期は脳疾患が起きやすい。

 室町時代に公卿の洞院公定がまとめた系図集『諸家大系図』には「頼朝は馬上で脳出血を起こしたのではないか」とある。脚本を書いている三谷幸喜氏(60)と時代考証チームはこの説を採用したのだろう。

 頼朝は落馬から17日後の1199年1月13日に死亡した。満51歳だった。

 鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』に頼朝の死亡時に関する記述がないのは知られている通りだが、それだけでなく、葬儀や埋葬の記述も一切ない。

 ただし、頼朝が本人の希望で「大倉法華堂(現在の鎌倉市・白旗神社)」に葬られたことは分かっている。法要もここで催されていた。

大切にしていた観音様

 この葬送によって頼朝という男の「真実」の一面が浮かび上がる。

 大倉法華堂とは頼朝の死後に付けられた呼び名で、もともとは御所の敷地内にあった「持仏堂」のことだ。

 持仏堂に祀られていたのは、頼朝が幼いころからマゲの中に隠していた小さな観音様。「鎌倉殿――」では第5話で登場した。

 石橋山の戦い(1180年)で頼朝が敗れ、洞窟内に逃げ込んだ際、マゲから取り出された。2寸(約6センチ)で銀製。京の清水寺で授かったものである。

 頼朝は第24話で乳母・比企尼(草笛光子)に対し、こう言っていた。

「観音様は捨て申した。挙兵した時、源氏の頭領として甘く見られないように」

 三谷氏がどう脚本を書くのかは分からないが、頼朝は実際には観音様を捨てていない。最期まで大切にしていた。神をも恐れぬような振る舞いを繰り返した頼朝だが、ずっと観音様に頼っていたのである。

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