【鎌倉殿の13人】頼朝死す その後、何が起きたのか

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京の反応

 さて、京では頼朝の死はどう受け止められたのか。

 関白・近衛家実の日記『猪隈関白記』によると、京に「頼朝重病」とのニュースが入ったのは1月18日。2日後の同20日には死亡が伝わった。

 たちまち朝廷には動揺が走り、不穏な空気が流れた。武家社会のトップの死が、自分たちに何をもたらすか分からなかったからだ。

 それに乗じ、時の実力者・権大納言の土御門通親(関智一)を襲撃しようとする動きもあった。テロだ。通親は土御門天皇の外戚だった。

 犯人グループは既に亡くなっていた頼朝の妹婿・一条能保と、その息子でやはり故人だった一条高能(木戸邑弥)の家人たち。高能はかつて大姫(南沙良)の結婚相手候補でもあった。

 事件の背景にも頼朝が絡む。頼朝の死の報せが京に届いた同20日、通親はそれを知らないことにして、自分が右近衛大将に就任した。同時に自分と幕府の関係を良くするため、頼家も左近衛中将に就かせた。この人事は頼朝の次女・三幡(東あさ美)の入内工作の一環でもあった。頼朝ファミリーの家格を上げるためだ。生前の頼朝に頼まれていた。

 なぜ通親は頼朝の死を知らないことにしたのか。そうしないと喪中となってしまい、頼家を昇進させられないからだ。これを公家で歌人の藤原定家は「奇謀の至り」と猛批判した。

 犯人グループも通親の姿勢に反発。襲撃を計画したものの、大江広元(栗原英雄)ら幕府首脳が通親への支持を早々と表明したこともあって、大事に至らずに収束した。

 もっとも、世の中が平穏を取り戻すと、今度は朝廷が幕府を侮り始める。頼朝時代には幕府に気を遣っていたが、それが薄らいでゆく。

 たとえば後鳥羽天皇(菊井りひと)は頼朝の死から約1年3カ月が過ぎた1200年4月、土御門天皇の弟で自分の第3皇子(のちの順徳天皇)を皇太弟にした。
天皇家の重大事である。

 これが幕府には報らされなかった。頼朝時代には考えられなかったことだ。間接的に知った幕府は面子丸潰れだった。

頼朝死後の鎌倉幕府

 一方、頼朝の死後は幕府も右往左往。18歳で跡を継いだ頼家(金子大地)の手腕を不安視する声があり、だから「鎌倉殿――」のタイトルにつながる「13人の合議制(宿老13人の合議制)」が導入された。

 有力御家人13人がそれぞれの経験を生かし、頼家をサポートする制度だった。頼朝の独裁体質を頼家に受け継がせないためでもあったと見られている。

 13人は北条時政(坂東彌十郎)、北条義時(小栗旬)、梶原景時(中村獅童)、三浦義澄(佐藤B作)、和田義盛(横田栄司)、比企能員(佐藤二朗)、安達盛長(野添義弘)、足立遠元(大野泰広)、八田知家(市原隼人)、大江広元、三善康信(小林隆)、中原親能(川島潤哉)、二階堂行政(野仲イサオ)。一番若いのは義時で36歳だった。

「なぜ若く武勲もない義時も選ばれたのか」「なぜ北条家から2人も入ったのか」。そんな疑問が生じるが、義時は頼朝にとって「家子専一」と呼ばれる立場だった。頼朝の側近の中でも一番信頼されていた、という意味である。

 出家して尼になり、尼御台となった政子(小池栄子)も義時をメンバーに推した。政子は頼朝未亡人で頼家の母だから、発言力は極めて強かった。

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