【鎌倉殿の13人】源頼朝「死因」のナゾ、「吾妻鏡」に記述なし、落馬説、糖尿病説も

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頼朝落馬死説の根拠

 もっとも、13年後の1212年2月になって、なぜか頼朝の死に触れた下りが『吾妻鏡』に登場する。それによると、頼朝は1198年12月27日、相模川橋が新造された際の橋供養に出席した。その帰りに落馬。ほどなくして死亡した。

 これが広く知られる「頼朝落馬死説」の主たる根拠である。ちなみに橋供養とは渡り初めの前に、橋の上で行う儀式だ。

 この橋供養には北条家が深く絡んでいた。まず北条時政の4女・あき(尾碕真花 21)が亡くなった。その夫の稲毛重成(村上誠基 39)はあきの冥福を祈って相模川橋をつくった。北条家に関係する儀式だったので頼朝は参列した訳だ。

 頼朝は年が明けた1199年1月11日に出家。その2日後に死亡した。死の直前に出家したのは奇異に感じるが、あの時代の身分の高い人の間では「臨終出家」が行われてた。死が迫った時点で出家した。

 背景には「僧になってから死んだほうが、あの世で優遇される」という考えがある。出家が頼朝自身の希望であるとすれば、さんざん人を殺しておきながら、図々しい話である。

 一方、『保暦間記』によると、源義経が壇ノ浦の戦いで入水自死させた安徳天皇(相澤智咲 7)らの亡霊が頼朝の前に次々と現れるようになり、それが基で病気になったという。ついに罪の意識に耐えられなくなったということか。にわかには信じがたいが、精神のバランスを崩した可能性はあるだろう。

 また、関白・近衛家実の日記『猪隈関日記』には頼朝の持病である飲水病(糖尿病)が悪化したので出家したものの、回復せずに死去したとある。

 さらに系図集『諸家大系図』には馬上で脳出血を起こしたのではないかと書かれている。

 史書の死因はバラバラ。そのうえ伝承としては暗殺説もある。三谷氏は腕の見せどころに違いない。

 大泉版の頼朝は断末魔の叫びをあげるのか。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。大学時代は放送局の学生AD。1990年のスポーツニッポン新聞社入社後は放送記者クラブに所属し、文化社会部記者と同専門委員として放送界のニュース全般やドラマレビュー、各局関係者や出演者のインタビューを書く。2010年の退社後は毎日新聞出版社「サンデー毎日」の編集次長などを務め、2019年に独立。

デイリー新潮編集部

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