【鎌倉殿の13人】源頼朝「死因」のナゾ、「吾妻鏡」に記述なし、落馬説、糖尿病説も

エンタメ 芸能

  • ブックマーク

Advertisement

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は前回第24話で南沙良(20)演じる大姫が非業の死を遂げた(1197年)。次に待つのは大泉洋(49)扮する源頼朝の死(1199年)。史書に目を移すと、その死因については複数ある。はたして脚本を書く三谷幸喜氏(60)は大泉版の頼朝にどんな最期を用意するのか。

 大泉版の頼朝は「曽我兄弟の仇討ち」(1193年5月)が描かれた第23話までは元気だった。比企尼(草笛光子)の孫娘・比奈(堀田真由 24)に夜這いをかけ、相変わらずのスケベぶりを発揮した。

 だが、次の第24話では一転して憔悴。1197年8月に長女の大姫が他界したためだ。より正確に言うと、大姫を後鳥羽天皇(菊井りひと 12)の后の1人にする野望が潰えたから。つくづく自分勝手な男である。

「誰かがワシを、源氏を呪っておる」(頼朝)

 自分に責任があるとは考えないのが一貫した頼朝イズムである。ということで今度は弟の範頼(迫田孝也 45)のせいにした。刺客・善児(梶原善)に殺させた。範頼は曽我兄弟による仇討ちを装った謀反の加担者という濡れ衣を着せられていた。

 ここからは史書をたどりたい。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』によると、曽我兄弟の仇討ちの後、範頼は謀反に関係したと認定された。その罪として伊豆国(静岡県東部の伊豆半島および現在は東京都に属する伊豆諸島)に流された。

 やはり謀反に関わったと見られた岡崎義実(たかお鷹 73)や大庭景能らが出家させられた。頼朝挙兵(1180年)時からの御家人である。粛正だった。

 範頼はシロかクロか。少なくとも頼朝が疑っても仕方のない状況だった。曽我兄弟の仇討ちから約2カ月半後の1193年8月、範頼の側近・当麻太郎が、頼朝の寝室の床下に潜んでいたからである(『吾妻鏡』)

 範頼は頼朝の自分への考え方を知ろうとして当麻を床下に忍び込ませたのか。それとも頼朝の命を狙っていたのか。はっきりしない。どちらにせよ、これでは頼朝との亀裂の修復はムリだった。

 伊豆国に流された後の範頼は修善寺で頼朝の御家人と交戦した末、自刃したとされている。墓も修善寺にある。ただし、範頼の晩年についてはほかにもいくつかの伝承がある。

「横浜・太寧寺に逃げた後に自刃した」「伊予国(現在の愛媛県)の豪族・河野氏を頼り、そこで亡くなった」「埼玉北本市の石戸に逃げ、隠れ住んでいた」――。

 確かに太寧寺には範頼のものとされる五輪塔がある。伊予市には鎌倉神社があり、そこには範頼のものとされる墓が存在する。石戸では範頼が植えた蒲ザクラが今も咲く。

 ちなみに「鎌倉殿――」では描かれなかったが、範頼の妻・亀御前の父親は安達盛長(野添義弘 63)。いつも頼朝の側にいるチョビヒゲおやじである。頼朝の流人時代からの側近だ。

 盛長は伊豆国に流された娘婿の範頼を秘かに逃がし、北本市石戸で匿ったとも伝えられている。盛長が石戸の領主だったからである。

 ただし、範頼が生きていたという説の信憑性は乏しい。義経(菅田将暉 29)が生きていてジンギスカンになったという話と同根の伝説に違いない。2人の生存を願う人々の思いから生まれた話だろう。

頼朝の猜疑心

 その後も頼朝による粛正は続いた。一ノ谷の戦い(1184年)などで活躍した有力御家人・安田義定の子息である義資が、1193年11月に斬首された。理由が前代未聞。鎌倉の永福寺薬師堂供養の際、人妻に恋文を渡したからだった。いくらなんでも罪が重すぎた。

 恋文の一件を頼朝に告げ口したのは梶原景時(中村獅童 49)。なので、陰謀の臭いがするが、どうやらその通り。義定は甲斐源氏の実力者で、頼朝が特に警戒していた。頼朝は処罰する理由が出来るのを待っていたらしい。

 翌1194年には義定自身も謀反の疑いをかけられ、殺される。頼朝の猜疑心はとどまるところを知らなかった。

 その後の1197年8月に大姫が他界すると、頼朝はすぐさま次女で11歳の三幡の入内工作を開始する。第24話の通りである。大姫の喪もそっちのけ。上洛まで計画した。やる気満々だった。

 三幡の入内工作は首尾良く運んだ。頼朝は大姫の時に増して工作に力を入れた。それには理由があった。

 1197年11月、公卿で妹婿の一条能保が病死した。同じく公卿の甥で、大姫の結婚相手候補でもあった一条高能(木戸邑弥 29)も1198年9月に23歳の若さで逝ってしまう。

 2人は頼朝にとって皇族との貴重なパイプ役だった。それが失われた。あらたなパイプを設けなくてはならなかった。

 また同じ1198年、後鳥羽天皇は退位して後鳥羽上皇となり、土御門天皇が即位した。朝廷内のパワーバランスが変化していた。頼朝としてはなんとしても三幡を入内させ、皇族との距離を縮め、朝廷内での発言力を高めたかった。

 ところが頼朝にも死が待っていた。他界したのは1199年1月13日。だが、『吾妻鏡』にはその記載がない。同年1月の記載がすっぽり抜け落ちている。

 記載が再開されるのは翌2月に長男の頼家(金子大地 25)が跡を継いで征夷大将軍となったところから。幕府内が相当混乱していたために違いない。実は大姫の死の際もそうだった。記載が抜け落ちている。

次ページ:頼朝落馬死説の根拠

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。