国防に協力的な自治体もあれば、“妨害”した自治体も 元外交官が明かす「安全保障の実態」

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 日米安全保障条約は、空気のように存在するものではない。当事者間の意思の疎通や、案件が発生したときの適切な処置を重ねていって初めて、実効力のある「抑止力」として機能するのだ。日米安保条約にもとづく防衛協力がほんとうの効果を発揮するには、米軍の駐留する市町村の協力が不可欠だ。ところが、実際の対応は実にさまざまだという。外務省で安全保障課長を務め、日米同盟の最深部まで知る岡本行夫氏が書き遺した渾身の手記『危機の外交 岡本行夫自伝』から知られざるエピソードを紹介する。

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東日本大震災では「2万4千人」の米軍兵士が動員された

 日本にあって軍隊の完全な活動を確保するのは、容易なことではない。東日本大震災の際には人命救助、遺体捜索、食糧運搬などに10万人の自衛隊員が動員された。この時の隊員たちの献身的な働きによって、国民の間の自衛隊に対する受容度は8割にまで上昇した。

 それだけではない。米軍は、2万4千人の兵員を投入して献身的な支援をしてくれた。当然、米軍に対する日本国民の好感度は大幅に上昇した。

 しかし、戦後かなりの間、軍は民衆の利益とゼロサムの関係に立つ組織と見られてきた。日本では、欧米のように軍が市民の側に立って戦ったことがない。それどころか、日本人には軍が国を破壊したという強い反軍感情がある。

 だから「平和」とはすなわち「非軍事」と捉えられる。硝煙の臭いのするものは遠ざけたいのである。長いあいだ、制服はどこに行っても忌避されていた。基地も同様である。知識として米軍の日本駐留が日本の安全を確保していることがわかっていても、人々は自分たちの周辺には来てほしくないと考える。いわゆるNIMBY(Not in my Backyard)だ。

 そうした中で、米軍が地位協定で保障されている活動を円滑に行えるようにするには、米軍の駐留する市町村の協力が必要である。うまくいく場合もあるし、いかない場合もある。いくつかの例を挙げよう。

例1)横須賀市:静かな対話と綿密な調整

 最もうまくいったのが、横須賀の第7艦隊の能力アップだ。1986年の夏、「第7艦隊の船をすべて交代させるが、そのうちの多くが核兵器積載可能艦になるので協力してほしい」という要請が在日米海軍司令部ジム・コッシー提督からあった。核積載可能艦といったって、実際に核兵器が積まれるわけではない。とはいえ、報道のされ方によっては、横須賀で大反対運動が起こる。市当局者との緊密な協力関係が絶対に必要であった。

 決定的に重要なのは、市長であった。僕の横須賀通いが始まった。毎週毎週、妻の運転するクルマで、1時間半かけて東京から横須賀まで行った。市役所を訪ね、横山和夫市長と面談した。米軍の計画の進捗状況を逐一報告しながら、市議会への説明の仕方を相談し、艦隊の入れ替えという本来のルーチン作業が反安保勢力によって政治問題化しないよう綿密な調整作業を行ったのである。かくして第7艦隊はルーチンの仕事として、静かに1隻ずつ交代していった。

 静かな対話と事務処理によって、大きな問題になることなく全艦艇の交代が実現した。世に知られることのないまま終了したオペレーションであったが、僕の任期中の最も大きな成功物語であった。

例2)福岡県:「そのような物騒なことには一切関わりたくありません」

 横須賀、佐世保のような市は例外で、多くの自治体は安全保障問題に巻き込まれたくない。

 86年、外務省は在日米軍と共に「6条事態研究」を行っていた。朝鮮半島で戦闘が勃発したときにいかに米軍の家族を韓国から避難させるか、連日シナリオが検討された。家族たちは、まずは韓国から至近の距離にある福岡空港に来るのが自然だ。そのためには福岡市がどのくらいの数の避難家族を受け入れる能力があるかを知る必要があった。毛布や食糧の備蓄量、収容施設、輸送手段。多くの情報が必要であった。そこで福岡県庁に電話した。返ってきた返答は冷たいものだった。

「我々は、そのような物騒なことには一切関わりたくありませんので、情報は差し上げられません」

 僕は困窮した。そしてアイデアを思いついた。僕の課に配属されたばかりの外務省入省1年生に、「お前、大学の学生だと言って緊急災害時の福岡県の対策を聞いてみろ」と命じた。

 彼は早速、大学の勉強に必要だからと県庁に電話した。そしたらなんと大量の資料が懇切丁寧な手紙と共に彼の自宅に送られてきたのである。僕らがほしがっていた情報はすべて含まれていた。

 偽りの電話をかけさせたのだから、僕は批判されてしかるべきである。教育熱心な福岡県庁の善意を悪用して自分の目的を遂げたのであり、後味は悪かった。しかし、若い学生には惜しげもなく資料を送るが、国の安全保障政策への協力は拒否する公的機関の態度は地位協定の実施に不必要な制約をかけている。横浜もそうであった。

例3)横浜市:市長が提案してきたルートを通ってみたが――

 学生時代に反体制運動を指導して、その後外務省で僕の4代前の安保課長を務めた松田慶文(よしふみ)という素晴らしく人間性に富んだ男がいた。俳優のリーアム・ニーソンに似た風貌と雰囲気の男だった。彼は最後はフィリピン大使になったが、大学卒業後に自治省へ入り、外務省に転籍した。松田は学生時代には東大の自治会の委員長で、安保反対デモの先頭に立っていた日本の官僚としては珍しい存在であった。僕は彼の仕事ぶりから現場主義と決断力を学んだ。

 松田が安保課長の時に大きな問題になったのは、72年8月、ベトナム戦争に送るために、米軍が相模原補給廠からM-48戦車を横浜のノースドックへ輸送しようとしたときだ。後に日本社会党の委員長になる横浜市長の飛鳥田一雄(あすかたいちお)氏は横浜市道の使用を認めず、ベトナム戦争に反対するデモ隊の側に立った。デモは大規模な戦車阻止闘争に発展し、M-48の輸送は10月末まで3カ月ストップしたのである。

 ある時点で、飛鳥田市長は、混乱を避けて戦車を輸送できる国道の道順を密かに松田さんに伝えてきた。松田さんは感謝した。表面的には戦車の移送に強硬に反対していた社会党の市長が現実的な妥協策を示してくれたと。

 だが、疑いがわいた。松田は戦車と同じ長さの竿を積んだトラックに乗り、市長が提案してきたルートを通ってみた。無理であった。トラックは、ある角をどうしても曲がれず、戻ることもできず、戦車は立ち往生することがわかったのだ。

 自治省出身で地方の反戦気分も良く知る松田さんのおかげで大混乱は避けられた。それから3カ月後、M-48戦車は日本の警察に厳重に警護され、国がこのために補強工事を行った村雨橋を通ってベトナムに送られていった。「常に友好的に。しかし心までは許すな」。これが松田さんから学んだ安保反対勢力との接し方であった。

 国の安全保障に協力してくれた横須賀市、逃げた福岡県、妨害しようとした横浜市。いろいろな自治体があった。

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『危機の外交 岡本行夫自伝』より一部を抜粋して構成。

岡本行夫(おかもとゆきお)(1945-2020)
1945年、神奈川県出身。一橋大学卒。68年、外務省入省。91年退官、同年岡本アソシエイツを設立。橋本内閣、小泉内閣と2度にわたり首相補佐官を務める。外務省と首相官邸で湾岸戦争、イラク復興、日米安全保障、経済案件などを担当。シリコンバレーでのベンチャーキャピタル運営にも携わる。2011年東日本大震災後に「東北漁業再開支援基金・希望の烽火」を設立、東北漁業の早期回復を支援。MIT国際研究センターシニアフェロー、立命館大学客員教授、東北大学特任教授など教育者としても活躍。国際問題について政府関係機関、企業への助言のほか、国際情勢を分析し、執筆・講演、メディアなどで幅広く活躍。20年4月24日、新型コロナウイルス感染症のため死去。享年74。

デイリー新潮編集部

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