“日米安保は不公平”なのか 最深部まで知る「伝説の外交官」が明かす交渉の舞台裏

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 在日米軍の駐留経費は、日本とアメリカが分け合う形で負担している。円高になると、アメリカの支払額が多くなってしまうのが実情だ。しかし、本国の事情で追加出費を捻出しにくいという場合がある。

 1986年がそうだった。プラザ合意による円高の急激な進行によって、労務費だけで300億円以上の追加出費が必要になったが、折からの経済摩擦もあって、米議会では追加出費どころか、米軍が払っていた全額を日本政府に負担させよとの声が高まっていた。

 日米安全保障条約の運用にあたる当事者たちは難局にどのように対応したのか。日米同盟の最深部まで知る外交官、岡本行夫氏が書き遺した渾身の手記『危機の外交 岡本行夫自伝』から知られざるエピソードを紹介する。

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 1986年10月のある晴れた日、アメリカ大使館のクリス・ラフルアー書記官が前触れもなく僕のところに、ニコニコしながらやってきた。ラフルアーは痩せて背が高く、いつもソフトな物腰で相手に警戒感を与えない。外交官の模範であった。ラフルアーは85年から90年まで東京で政務安全保障を担当し、僕の安保課長、北米1課長の時代を通じてのカウンターパートであった。宮沢喜一元首相の女婿であり、礼儀正しいソフトタッチの話し方であるが、威厳も備わっている「いいヤツ」であった。

 安保課には会議室もない。20人の課員がデスクを並べているだけで、その間を通るのもやっとという狭さだ。僕は不在だった課員の椅子を勧めて聞いた。

「今日はなんの用件なんだい?」

「うん、労務費を日本側が分担することを検討してもらえないかと思って来たんだ」

「労務費? これ、正式なアメリカ政府の申し入れなの? 何百億円もする話だよ。もっとハイレベルでスタートする話じゃないの?」

「日本とはできるだけ静かに事務レベルで行いたいんで、キミのとこに来たんだ」

 なんとも、カジュアルに要請してきたもんだと驚いたが、政治問題化したくないというアメリカ政府の意思はわかった。

 ラフルアーは言った。

「日米関係の長期的な利益を考えれば、在日米軍経費のうちドル部分をアメリカが、円貨部分を日本が負担し、結果的に駐留に必要な総額を日米が折半する格好にするというのが、政治的にはいい落ち着きどころと考えるがどうだろうか」

 実は僕もそう思っていた。なにしろ日本は世界一の金融資産国家として、アメリカ中の不動産や会社を買い漁っていた。日本タダ乗り論が燃えさかり始めていた。しかも、前年(85年)の秋、日本はイラン・イラク戦争の際のペルシャ湾の航行安全確保に貢献すべきところを電波灯台の設置だけで勘弁してもらっていて、その見返りとして日本がいわゆる「思いやり予算」を増額することは暗黙の了解だった。

 しかし、5割負担には日米地位協定の壁があった。日本側は、78年から始まった「思いやり予算」の中で、労務費のうち法定福利費や労務管理費を負担していたが、それ以上にアメリカ側の要求する労務費本俸(ほんぽう)(手当などを含まない基本の俸給)を負担するためには日米地位協定を改正しないといけなかった。

「うん、とにかく上と相談するよ」

 藤井宏昭北米局長(のちに駐英大使)に報告したあと、課員たちと相談した。どうしようか? 巨額の予算が必要になる。大蔵省はどこまで協力してくれるのかなあ。とにかく主計官のところへ相談に行こう。それに、法的問題もあるよなあ。

 既に日本は日米地位協定の下で負担してもおかしくない区分は全て負担していた。「労務費」まで負担するのは、地位協定上は無理であった。地位協定自体には僕も含めて誰も手をつけたくなかった。これは一種のパンドラの箱で、いったんいじり始めると手がつけられないことになりそうだった。野党は地位協定を修正するのなら、裁判管轄権や演習空域の縮小を求め政治キャンペーンを張ってくるだろう。逆にアメリカ側が、欧州各国と結んでいるSOFA(地位協定)に比べて日本側に有利になっているところを直せと言ってくるかもしれない。日米地位協定は、日本側とアメリカ側がとったりとられたりの交渉を重ねてできたもので、全体としてみればバランスが図られている。一部をいじり始めるとそのバランスを回復させるために大騒動が必至であった。

 安保課の首席事務官は梅本和義(のちにイタリア大使)という滅多にない頭脳の持ち主であった。東大の数学の修士号をもつ変わった経歴の男で、北米局で最も知恵を出す男であった。頭を悩ましていたら、梅本があっさりと言った。

「地位協定のほかに、『特則』という形でもう1本の新しい国会承認条約協定を作ればいいんですよ」

 彼が構想したのが地位協定自体には手をつけず、一般法と特別法の関係に従って、修正の必要な部分だけを特別立法し、これを国会に承認してもらって実質的な地位協定改正と同じ効果を持たせるという方式であった。僕はびっくりし、彼の大胆な発想に感心した。道がなければ道を作る。それこそが我々の力だった。

 それから猛烈な作業が始まった。徹夜などはしょっちゅうであった。幸い大蔵省の防衛担当主計官が岡田康彦(のちに環境事務次官)であった。

 いくらアメリカ側が「政治問題」化したくないと言ったって、このように大掛かりな措置を日本で講じるためには、政治レベルの指示が絶対に必要だ。僕はいろいろな人にお願いしてまわった。政治家の中でいちばん助けてくれたのは、自民党外交調査会長の小坂善太郎元外務大臣だった。

 僕は彼が大好きだった。財閥の御曹司でありながら、倹約家で、自宅には人にもらった食べ物がしまってあって、それを少しずつ食べるのだが、古くなって固くなってしまっても「勿体ない」と無理に食べていた。当時の偉い人にはそういう人が多かった。東芝の土光(どこう)敏夫会長、NTTの真藤恒(しんとうひさし)会長、みんな驚くほど質素な生活をしていた。あれが戦後日本の奇跡の成長をもたらした背景にあったんだとつくづく思う。

 ちなみに小坂善太郎の息子の小坂憲次も議員になり、1年生の時から、多くの安保案件で助けてくれた。

 日本の国会では予算委員会が花形委員会で、議員はみんなそこに出席したがる。常に注目され、テレビカメラがまわっているからだ。ところが安保案件は与野党の対決案件がほとんどだ。野党は最後まで反対し、最後は議場で与野党議員が揉み合いになる。この場面をテレビで流されるのは選挙にマイナスだ。だからシニアな議員は対決案件の採決の際は出席を避け、新人議員で差し替えることが多い。小坂は怖がらずに対決法案の採決に出かけてくれた。

 その小坂も財閥の息子でありながら、背広は常に200ドル、自動車はボロでアメリカ大使館のレセプションに出かけたら、怪しまれて入れてもらえなかったという逸話がある。僕は多くの国会議員を知っているが、日本の議員が金銭スキャンダルと隣りあわせに暮らしているという外国人の思いこみは間違っている。

 梅本の提案と小坂善太郎会長の支援、そしてもちろん中曽根康弘首相の強力なリーダーシップの下で5年間の労務費特別協定存続期間を通じて、日本側が総計1千億円の労務費を負担することが日本政府部内で合意された。この協定を作ることも僕の仕事になった。

 僕は毎日、ワシントンの国防総省と電話した。相手はジム・アワー日本課長。双方の国内財政事情と政治的雰囲気を考えれば、ギリギリの線での合意であった。この合意は、政治レベルまで上がることなく、ただの一回の大げさな交渉を行うこともなくまとまった。新協定は87年5月衆議院の本会議で可決された。

 こうしたことは、もちろん当時のロン・ヤス関係の下で栗原祐幸防衛庁長官とキャスパー・ワインバーガー国防長官の間の信頼関係があったからできたことであった。しかし、後日ワインバーガー長官が自叙伝『Fighting for Peace』の中で、「極端に後ろ向きな日本の官僚たちに栗原防衛庁長官と中曽根総理大臣が無理やりやらせた」(著者訳)と書いたのは、事実に反する。当時日本の事務レベルはアメリカとの関係において憲法の範囲内で日本側もできるだけの安保協力をしようと必死だったのである。労務費特別協定を作って日本側の負担分をひきあげようとすることに反対の官僚はひとりもいなかった。労務費負担は、事務レベルがイニシアティブをとって、政治レベルの了承を求めていった案件である。多くの日本の政策は、官僚組織の最小単位である「課」で構想され、作られていく。頑迷固陋な官僚を中曽根・栗原が押さえつけて政治的に実現させたというストーリーは、日本を最も理解していた聡明なワインバーガーさんですら陥っていた固定観念であった。

 国会は苦労すると思ったが、ことは在日米軍基地に働く日本人従業員の待遇に関することだ。全駐労の及川一夫参院国対委員長(社会党参議院議員)が安保案件承認の際の社会党の議員を根回ししてくれたので、思いの外にスムーズに国会承認がとれた。

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『危機の外交 岡本行夫自伝』より一部を抜粋して構成。

岡本行夫(おかもとゆきお)(1945-2020)
1945年、神奈川県出身。一橋大学卒。68年、外務省入省。91年退官、同年岡本アソシエイツを設立。橋本内閣、小泉内閣と2度にわたり首相補佐官を務める。外務省と首相官邸で湾岸戦争、イラク復興、日米安全保障、経済案件などを担当。シリコンバレーでのベンチャーキャピタル運営にも携わる。2011年東日本大震災後に「東北漁業再開支援基金・希望の烽火」を設立、東北漁業の早期回復を支援。MIT国際研究センターシニアフェロー、立命館大学客員教授、東北大学特任教授など教育者としても活躍。国際問題について政府関係機関、企業への助言のほか、国際情勢を分析し、執筆・講演、メディアなどで幅広く活躍。20年4月24日、新型コロナウイルス感染症のため死去。享年74。

デイリー新潮編集部

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