徴用工で問題となった「朝鮮人班長」による着服 賃金自体は当時としては高額

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 革命を目指す「在日本朝鮮人連盟」と「日本共産党」の活動拠点の一つは、多くの朝鮮人が働く「炭鉱」だった。その仕事は危険と隣り合わせだったから、賃金は高い。しかしさまざまな理由で全額が本人の手に渡っていなかった。ここに「徴用工問題」の淵源がある。

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 民族統一と共産革命を目指し、日本共産党再建時の母体にもなった在日本朝鮮人連盟(朝連)――。その活動費は、鉄道や物流の利権を得た同胞の送還事業や、闇米の売買などからもたらされたが、他にも重要な資金源があった。

 それは「炭鉱」である。

 法務省の入国管理局によると、終戦時にわが国に在留していた朝鮮人は、200万人を超える。1938年、戦時下の労働力不足を補うために国家総動員法が施行され、翌年、国民徴用令が出されると、朝鮮半島などから63万5千余人に上る労務者が渡航してきた。敗戦後にGHQに出入国管理が移管された時、事業現場にいた朝鮮人らは32万2千余人に上った。

 朝鮮からの労務動員者が多数働いていたのは、軍需産業、土木事業、そして石炭産業だった。

 1947年発行の「石炭労働年鑑」によると、炭鉱で働く朝鮮人労働者数は、1945年7月末時点で石炭労働者全39万153人の3割、約12万人に及んだ。その在留地は朝鮮に近い福岡・山口・広島県及び北海道の産炭地だった。

 在留朝鮮人たちは、日本の敗色が濃くなると、戦禍を逃れるために帰国を始めた。特に米軍の空爆の標的となった軍需工場の労働者は、次々と職場を放棄し、空襲のない朝鮮半島へと船を仕立てて帰還していった。そして戦争が終わると、一気に大量の朝鮮人が引揚げ港に殺到した。

必要な人物の帰還を拒否

 GHQは治安維持のため、できる限り早期に朝鮮人労働者を計画輸送で送還させようとし、それを受けて政府は朝鮮人団体の興生会、そして朝連の協力を仰いだ。

 三菱など大手資本の炭鉱では、独自に船を仕立て、朝鮮人労働者をまとめて帰還させていた。もっとも日本政府は、戦後復興のためにはエネルギー源の石炭が不可欠だったことから、日本人が戦地から帰還し、炭鉱での人員の補充ができるまで朝鮮人を慰留しようとした。

 1945年9月1日の各地方長官への通達には、

「石炭山等に於ける熟練労務者にして在留希望者は、在留を許容すること。但、事業主に於て強制的に勧奨せざること。輸送順位は概ね土建労務者を先にし、石炭山労務者を最後とし、地域的順位に付ては運輸省に於て決定の上、関係府県・統制会・東亜交通公社に連絡す」(「朝鮮人集団移入労務者等ノ緊急措置ニ関スル件」)

 とある。

 また朝連も、組織の大切な構成員を減らしたくはなかった。このため、引き揚げ特権喪失者リストを作るなどして、必要な人物の帰還を拒んでいる。

 北海道の朝鮮民族統一同盟(朝連の一組織)の創設メンバーで、共産党の細胞としても活躍をした金興坤は、GHQへの不満を記している。

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