徴用工で問題となった「朝鮮人班長」による着服 賃金自体は当時としては高額

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北海道に17万の朝鮮人

 1945年の11月1日と2日、金は札幌で3千人規模になる統一同盟の結成大会を開催しようとしていた。当初、GHQは協力的で、金らの移動のためにパスポートを与え、軍の運転手付きジープや特別列車を用意し、地元の北海道新聞に同胞への告知を行う便宜も図った。準備は万事順調に運んでいたが、突然、在北海道朝鮮人労働者の優先的計画輸送が打ち出された。

「我われの意図とは反対に、占領軍当局は当時二五〇万名もいる在日朝鮮人を本人たちの意志にしたがって故郷へ帰すことが、占領地日本の治安上便利であったし、しかも北海道には石炭を掘るために十七万名もの朝鮮人がいたが、占領後は、石炭一かけら掘るどころか争いばかりおこして厄介であったことから、積雪となれば輸送も困難となるので、無料で在北海道朝鮮人労働者を優先的に計画輸送するように日本政府に命じたのであった。今日まで働いた賃金は奇麗に支払ったうえ本人の故郷まで無料で優先的に返すという計画に従って、強制的に引っ張られてきて以来、夜も昼も一分たりともわすれたことのない懐かしい故郷へと、もっとも勇敢にわが朝鮮民族統一同盟のために、共に闘った人々も我々に断りもなく帰国してしまうのであった」(金興坤「怒りの海峡―ある在日朝鮮人の戦後史」「季刊人間雑誌」草風館)

 北海道には夕張、美唄、空知の炭鉱を中心に14万5千余人、千島を入れると17万人の朝鮮人がいた。その多くは朝連の構成員だったのである。

労働組合、朝連、共産党

 産炭地は戦後の朝鮮人共産主義者と日本共産党の活動拠点だった。当時の炭鉱の様子について、日本共産党の幹部だった寺尾五郎は、こう回想している。

「北海道の炭鉱町に飛んだことがある。驚いたネ、さすがに。三百人からの巨大細胞があるんだ。それが全員朝鮮人で、『朝連』の会員で、そのうえ『なんとか労働組合支部』でもあるんだ。三つのちがった組織が全部おんなじ顔ぶれなんだ。そして一番の古参が組合長で、一番酒の強いのが朝連の支部長で、一番理屈っぽいのが細胞長で(笑)、何をやるのも三百人が一体になってやる」(寺尾五郎・降旗節雄対論『革命運動史の深層』谷沢書房)

 寺尾は言う。

「ある日ある男が組合費集めて歩いて、ある日ある男が朝連の会費集めて、ある日ある男が党費集めて、出す方もどこへなんのために出しているのかわけがわからない。だけど、『良いことに使ってるんだから、どこが使おうと、いいじゃネーカ』ってなもんなんだ。『今度東京で大会がある、代表二人出そう』『ヨーシ行ってこい』。それが党の大会であろうと組合大会であろうと、要するに良いことをしに行くんだから、組合費集めて朝連に行こうと党大会に行こうと、誰も不思議に思わない。党と大衆団体の区別とか、労働団体と民族団体の区別もへちまもなく、みんな同じ革命の話をやり、天皇制打倒の話をしてるんだ。革命的昂揚期とはそんなもんなので、それでいいと思うし、すばらしいと思うし、結局私は、三つの組織の区別もつけず、整理もせず、カンパだけもらって東京へ帰ってきて、別に誰も怒りもしなかったよ」(同前)

 労働組合、朝連、共産党が渾然一体となり、集められた資金にも区別はなかったのだ。

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