元通訳が明かす、「オシム監督」が遺した日本のサッカーが目指すべき道

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 5月1日、80歳で亡くなった名将イビチャ・オシム氏。彼がサッカー日本代表監督に就任して以降、日本サッカー協会アドバイザーを退任するまで(2006年7月~2008年12月)、傍らで専任通訳を務めたのが、国際ジャーナリストの千田善氏(63)だ。東大卒業後、旧ユーゴスラビアのベオグラード大学政治学部大学院に留学した千田氏の専門は、国際政治、民族紛争、異文化コミュニケーションなど多岐にわたる。自身も元サッカー選手で、サッカーへの造詣も深い。今回、改めてオシム監督との思い出を語ってもらった。

「日本だから来たんだ」

 元々、オシムさんは日本という国に興味を持っていました。実際、ジェフ(ジェフユナイテッド市原)の監督に就任するにあたって、「日本だから来たんだ」と言っていました。1964年の東京オリンピックに、旧ユーゴスラビア代表として来日した際の記憶が、いい思い出として残っていたようです。

 選手村からマラソンコースを辿るサイクリングに出かけたとき、当時は畑が広がっていた現在の「味の素スタジアム」のあたりでひと休みしていたら、おばあさんがやってきて梨を食べさせてくれた、と。初めて食べた西洋梨とは違う日本の梨の味や、突然、見知らぬ人から受けた親切が、とても印象深かったそうです。

 オシムさんは異文化への好奇心が旺盛な方でした。それは、多民族のひしめくサラエボで育った過去が強く影響していたのではと思います。母親からは「自分と異なる文化へのリスペクトを持て」と言われて育ったとも。

 旧ユーゴスラビア出身の方の中には、魚が苦手な方もいますが、オシムさんはそうではありませんでした。むしろ、自分でアジなどを買ってきて、三枚におろしてしまうほどの魚好きで、もちろん、お刺身もいけます。納豆以外はあらゆる日本食が好物でした。

 コーチ会議では、「ただ大量の水を運べばいいわけではない。おいしい水でなければいけない。泉から湧いたばかりの、冷たい水だ。日本にもワサビを栽培する泉があるだろう。ああいうところの水だ」と言い出し、スタッフたちを驚かせたこともありました。どうして「ワサビ田」のことまで知っているのか、と。

サッカーと数学の二刀流

「ワサビ田」の例にかぎらず、オシムさんは常にエスプリに富んだ発言が溢れ出てくる方でした。サッカー監督であったのと同時に、ヨーロッパの一流知識人でもあったんです。母語だけではなく、フランスで8年間プレーした経験からフランス語を、オーストリアで監督を9年間務めたことでドイツ語を流暢に操ることができます。英語もある程度はいける。そのため、八重洲ブックセンターでフランスの国際情勢を報じる月刊紙「ル・モンド・ディプロマティーク」、ドイツの週刊誌「デア・シュピーゲル」などを買ってお届けするのも私の仕事でした。

 オシムさんは18歳から20代前半にかけて、地元サラエボのプロクラブのトップチームでプレーする一方、サラエボ大学の理数学部数学科で学んでいました。いまで言う二刀流ですね。担当教授からは研究職に進むことを勧められたそうですが、大学3年生の頃からサッカー選手としての出場給が増え、ユーゴスラビア代表として東京オリンピックに出場したことをきっかけに、悩んだ末、大学を中退しています。サッカーのプロになっていなければ、数学者になっていたことでしょう。

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