日本共産党の“裏歴史” 戦後結集した「朝鮮人組織」と共産主義者

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日本人との摩擦を解消する人物

 こうした混乱の中、朝鮮人を統制し、各地で生じていた日本人との摩擦を解消する強いリーダーシップを持つ人物も待たれていた。その一人となったのが、のちに在日本大韓民国民団中央団長となる権逸である。

「八月十八日になると、いわゆる一心会派の権藤嘉郎(権逸)丸山修司(鄭寅学)木原茂(李在東)らの従来からの指導者らによって、東京都杉並区に『在留朝鮮人対策委員会』がまず結成された。(略)こころある指導者たちは、これらの帰国を急ぐ同胞の引揚問題、日鮮人同士の摩擦問題、同胞の秩序と福利厚生などの諸問題について、まずなによりも組織をもつことを叫んだ。そして東京では、はやくも八月十八日に杉並区に『在留朝鮮人対策委員会』が組織されたのを皮切りに、都内各所に同じ目的をもつ団体が、ぞくぞく組織されていった。これは東京だけではなく、大阪でも京都でも神戸でも全国いたるところで、いろいろな名前の群小団体が組織されていった」(坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』法務研究報告書)

 権逸は在日朝鮮人の巨頭である。権赫周、権藤嘉郎という名前も持つ。民団の中央団長を務めた後は帰国して1967年より韓国国会議員となり、戦後の日韓関係の一翼を担った。

 だが戦前は満洲国の官僚養成機関である大同学院に学んで、満洲国の法務官を務めていた。引用文に出てくる一心会は、朝鮮人の処遇改善に感謝の意を表し、埼玉県高麗神社の近くの地下飛行場建設事業遂行のため結成された朝鮮人組織である。なお先の相愛会は、戦前の国会議員を2期務めた朴春琴が中心となり、大正時代より日本の事業現場に人材を派遣し労働者の世話をする団体であった。

石原莞爾の志に共感

 権逸は敗戦の日を、東京からそう遠くない群馬県新治村の湯宿という温泉場で迎えている。

 その家族はB29の空襲を避け一足先に湯宿に疎開、権逸は中野区上高田の自宅に曹寧柱(のち民団長)らと残っていたところ、8月7日、大日本帝国陸軍の石原莞爾将軍の弟・六郎が広島に新型爆弾が落とされたという知らせを持ってやってきた。話を聞くや権逸は、

「この新型爆弾が原子爆弾であることは間違いなく、これで戦争は終わるのだと判断した。その三日後の九日には長崎にも原子爆弾が落とされた。次は東京だという噂も出た。私たちはこのまま東京にいて犬死にすることはないと、曹寧柱君といっしょに急いで東京を抜け出し、家族がいる湯宿に向かった」(権逸『権逸回顧録』)

 彼が石原莞爾の知己を得たのは、満洲の大同学院時代だった。爾来、権逸は石原の五族協和の志に共感し、東亜聯盟の夢を信じて同胞に尽くしてきた。

『世界最終戦論』で知られる石原は、関東軍作戦参謀として満蒙領有計画を立案、板垣征四郎等と1931年、満洲の奉天(現・中華人民共和国の瀋陽)で、南満洲鉄道を爆破した柳条湖事件(満洲事変)の首謀者である。東京裁判の出張尋問では、

「満洲国建国に最も深くかかわったのは自分であり日本の戦争責任を裁くのなら戦犯第1号は自分である。まずは私を裁判にかけよ」

 と自らを戦犯に指名することを求めたが、東条英機と対立し左遷されていたために、戦犯を免れている。

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