戦後の共産主義者釈放、歓迎会の主催は朝鮮人団体だった 「赤旗」の再刊資金の出どころは

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 釈放された共産主義者たちは、そのまま東京・西新橋の飛行会館へと向かい、「自由戦士出獄歓迎人民大会」に出席して熱狂的な歓迎を受けた。だがその参加者もほとんどが朝鮮人で、赤旗とともに太極旗が至る所で振られていた。これも主催は朝鮮人団体だったのだ。

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 1945年10月10日、府中刑務所前の出獄式に参加した朝鮮人連盟(朝連)準備委員会と日本人共産主義者は、雨天のために式を早々に切り上げ、トラックに分乗した。一行は、東京・西新橋の飛行会館(現・航空会館)で催された「自由戦士出獄歓迎人民大会」へと移動した。当初、歓迎会は日比谷公園に予定されていたが、雨天のため急遽飛行会館に変更となった。

 この大会に出席し、後に作家となる崔碩義は、在日朝鮮人運動史研究会の会誌に寄稿した「八・一五解放前後の舞鶴の思い出」で次のように回想している。

「十月十日には朝連の事務所で教えられて、芝の田村町の飛行会館(内幸町NHKの近くにあった)で開かれた歴史的ともいえる『自由戦士出獄歓迎人民大会』を見物にいった。目当ての徳田球一、金天海の姿は結局みられなかったが、金斗鎔が演説するのを聞いた。場内は圧倒的に朝鮮人が多く、熱狂的な雰囲気であった。私は生まれて初めてこんな光景に接し、わけが分からないまま興奮したことをよく覚えている」

占領軍のMPが多数動員

 徳田球一、志賀義雄ら「府中組」は、占領軍の事情聴取により出席できなかった。だが、定員600人の講堂は満員で、各階の廊下や周辺の街路に人があふれていた。飛行会館の講堂やその玄関前、街路でも赤旗や太極旗が振られ、「解放戦士万歳!」「戦争犯罪人を処罰せよ!」といったスローガンが繰り返し唱和された。

「その集会は熱気がむんむんしていて、初めての経験でした。これからは共産主義の世の中になるという雰囲気だった。戦争中でも節操をまげずに闘った共産主義者たち。この時いろんな人が演壇に立って演説したが、朝鮮人でひとり金斗鎔が光っていた」(吉見義明・川田文子「崔碩義氏からの聞き取り〈第1回〉―ある在日朝鮮人の戦前・戦中体験と戦後体験」『中央大学商学論纂』第52巻1・2号)

 それまでは軍国少年、皇国少年だった崔碩義も、この「自由戦士出獄歓迎人民大会」に出席した多くの朝鮮人青年たちと同じように、一夜にして朝鮮の愛国者になった。

「一言でいったら、若い我々が新朝鮮を建設して、いい国にしようという、ごく普通の考えでしょうね、自然にそうなりました」(崔・同前)

 参集した人数は諸説ある。沿道にあふれかえる人々の警護のため、占領軍のMPが多数動員された。

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