昭和の大横綱「大鵬」に流れるウクライナの血 父親はハリコフ市出身の「コサック騎兵」だった

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初めて見た父の写真

 大鵬が自身の出生と父の存在を認識したのは、母・キヨが亡くなった昭和48(1973)年のことだった。大鵬の妻である芳子が、一葉の小さな写真を差し出したことで知る。

「お父さん(大鵬)、これ……。おばあちゃん(キヨ)が『私が死んだら幸喜に見せて。これが幸喜のお父さんなのよ』って預かっていたの」

「なんだ、おふくろ、お前には話していたのか……。うん、兄貴に面影があるな」

 初めて目にする、口ひげをたくわえたセピア色の父の写真を手に、そうぽつりとつぶやいた大鵬は、ひとり静かにいつまでも見入っていたという。

 大鵬夫妻と新婚当初から他界するまで同居していたキヨは、節くれ立った手で新妻の芳子の手を取り、ことあるごとに口にしていた。

「芳子さん、よくこんな家に嫁に来てくれたねぇ。本当にありがとうねぇ」

 しみじみと振り返り、芳子は言う。

「戦時中に国際結婚をした義母は、人に言えないような苦労もしてきたんだと思うんです。お兄さんやお姉さんはハーフだということでいじめられたり、周囲の目も厳しかったそうですから。そんな納谷家によく入ってくれた、ということでもあったんでしょうか」

 生前の大鵬も、亡き母を偲びながら、こう語っていたものだった。

「だっておふくろは、日本が負けた国の人間と一緒になったんだよ。その子どもを産んで、もう自分の実家にも戻れなかったんだから……」

 大鵬は、たった1枚しか遺されていない父の写真を大きく引き伸ばし、母の遺影と並べ、仏間に掲げた。父の消息について各方面から集まった情報から没年月日を想定し、位牌にその魂を込めてもいた。

 位牌右側の戒名は父であるボリシコ・マリキャン――「大乗院勲功日鞠大居士」。左側は母・キヨの戒名である。

 現在、大鵬の孫として、十両の「王鵬」、幕下の地位で関取昇進を狙う「夢道鵬」と「納谷」が、祖父の歩んだ道を邁進している。大鵬の三女で三人の息子を相撲界に送った納谷美絵子は言う。

「私たち三姉妹にとって父方の祖父にあたりますから、その子どもたちもみんな、ウクライナの血が流れていることになりますよね。先日、ふたりの姉たちとも話したんです。『もし祖父が祖国に帰ってから再婚していて、その子孫がいたとしたら――私たちにはウクライナに遠い親戚がいるかもしれないんだよね』と。今、そんな思いを馳せてもいるんです」

 2000年、大統領となったウラジーミル・プーチンが来日した際、迎賓館で開催された晩餐会に大鵬が招待されたことがある。わずかな時間ながら、握手をして話す機会があった。

 そのときの様子を、大鵬の著書『巨人、大鵬、卵焼き――私の履歴書』(日本経済新聞社刊)より抜粋する。

《「私にもロシアの血が入っていますよ」と話しかけると、柔道など格闘技好きの大統領は、私のこともよく知っているようで「それだから、日本で最高の力士になれたんですね」と言う。私は、「ええ、その父に誇りを持っています」》

 戦士として誇り高く「最強の騎兵」と称されていた父を持つ、かつての大横綱。大鵬は今、泉下――否、天上で何を思うのだろうか。

佐藤祥子/ノンフィクションライター

デイリー新潮編集部

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