橋下徹や玉川徹には理解不能…ウクライナ人が無条件降伏は絶対しない理由

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欧州に残るソ連の蛮行の記憶

 おそらく、ウクライナ人が無条件降伏しないのは、彼らの頭にフィンランドとリトアニアの例があるからだろう。1939年8月23日の独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づいてソ連がフィンランドに侵攻した。フィンランド軍は激しく抵抗し、一時ソ連軍を大敗させたが、時間の経過とともに劣勢となり領土の一部を譲る条件で講和を結んだ。その後、ドイツが進軍してきたときは、ドイツ側につき、奪われた領土を取り返したが、ドイツ軍が敗退すると、再びソ連と戦って大打撃を与えたあと、ドイツの敗戦の前の1944年9月19日にソ連との休戦に持ち込んだ。そして、東欧諸国のような共産化と属国化は免れた。

 リトアニアも独ソ不可侵条約を受けて1939年9月28日にソ連の勢力圏に入れられた。そして、1940年6月14日、ソ連が一方的に押し付けた相互援助条約を誠実に守らなかったと言いがかりをつけられ、最後通牒を突きつけられ政権交代を要求された。これにリトアニア政府は抗しきれず、内閣は総辞職し、その後大統領のアンタナス・スメトナはドイツに亡命した。そのあとには、共産主義者ユスタス・パレツキスを首班とする傀儡政権が生まれた。旧政権の勢力は完全に駆逐され、以後、徹底的にソ連による属国化が行われ、再び独立を回復するのは1990年3月11日まで待たなければならなかった。実に50年間である。

 これら2国の歴史は、ロシア(当時はソ連)の脅しに屈するとどうなるか、そうせずに戦うとどうなるか、を示している。どちらの国もウクライナと遠からぬところにある。今ウクライナ人は、リトアニアではなくフィンランドがした選択をしているのだ。

誤った歴史認識

 ではなぜ、一部の日本人がウクライナ人の愛国的行動を批判するのか分析してみよう。それは彼らの持っている誤った歴史認識が関係している。

 彼らは日本が無条件降伏したと思っている。「無条件降伏しても、この通り大丈夫だ。大したことではない。だから命を大切にした方がいい」と考えている。日本は無条件降伏しなかったこと、そして降伏した相手がアメリカだから、日本が今ある姿になっているのだということを知らない。

 これまで『歴史問題の正解』(第6章「日本は無条件降伏していない」)、『日本人はなぜ自虐的になったのか』(第4章「ボナー・フェラーズの天皇免責工作と認罪心理戦」)、『一次資料で正す現代史のフェイク』(第7章「日本が無条件降伏したというのはフェイクだ」)などでも明らかにしたが、日本は「国体護持」という条件つきで降伏している。その証拠に、真っ先に裁かれるはずの天皇は、極東国際軍事裁判でも、戦犯になるどころか起訴さえされていない。

 当時のアメリカの世論調査では、天皇を絞首刑にしろとか、裁判にかけろとかという意見が圧倒的に多かったが、「国体護持」の条件つきなので、占領軍の最高司令官ダグラス・マッカーサーには、それはできなかった。それをすれば、日本側指導者は、約束が違うと立ち上がり、占領統治が困難になるからだ。

 なぜ、ハリー・S・トルーマン大統領が「国体護持」の条件付き降伏まで譲ったのかといえば、硫黄島、沖縄での日本軍の死を恐れぬ戦い方を見て、本土上陸作戦を避けたいと思ったからだ。

 1945年6月18日のアメリカ軍幹部と政権幹部の合同会議で、九州上陸作戦が行われれば、作戦に加わった19万人のアメリカ将兵のうち、約30%のおよそ6万3000人が死傷するという試算が示された。これは到底許容できるものではない。関東上陸作戦ではさらに膨大な死傷者がでることになる。そこで、本土上陸作戦の代替案として、日本が望む「国体護持」という条件付きで降伏を求めることを考えた。

 この30%は、硫黄島、沖縄での死傷率からはじきだされたもので、戦争初期では15%前後だった。つまり、日本軍の抵抗は、アメリカ軍が日本本土に近づくに比例して激しくなったということだ。

 日本の将兵は無駄死にしたと考える人がいるが、それは間違いだということがわかる。彼らの決死の戦いがアメリカ将兵の死傷率を高め、それが「国体護持」の条件付き降伏案を引き出したのだ。ウクライナ人に無駄死にだという日本人はこの事実を知らないのだ。

 もう一つ、トルーマンがこの降伏案をとった理由は、ソ連の参戦だった。予想に反して、日本は原爆投下後も降伏しなかった。拙著『「スイス諜報網」の日米終戦工作―ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか―』でも明らかにしたように、昭和天皇は「国体護持」できるという確証が得られるまで降伏するつもりはなかった。スイスやスウェーデンの情報から、降伏してもアメリカは少なくとも皇室を廃止しない公算が大きいと知って、降伏を決意している。

 一方、ソ連のトップであるヨシフ・スターリンは、1945年8月15日に参戦するとトルーマンに言質を与えていたにも関わらず、原爆投下をみて、急いで8月9日に参戦してきた。早く日本を降伏させないと、日本をソ連と共同占領しなければならなくなる。もう無条件降伏にこだわってはいられなかった。

 ただし、トルーマンは、アメリカ国民向けには、日本が無条件降伏したとしてプレスリリースした。そうしないとアメリカの世論は収まらないからだ。そして、日本の占領にあたって、マッカーサーに無条件降伏したものとして占領政策を進めるように命じた。

 マッカーサーは、終戦の経緯から、また、東久邇宮総理が「国体護持」をスローガンとしているのを見て、天皇をそのままとどめ置き、裁判にもかけないほうが、占領が円滑にいくと判断した。そして、みずから選出した極東国際軍事裁判の判事団にそのような方向にもっていくよう圧力をかけた。

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