「高校からは勧誘がなかった」 ラグビー・大畑大介が明かす挫折と転機(小林信也)

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 1999年香港セブンズ。日本代表はスコットランドに善戦するも26対31、残りワンプレーに追い込まれていた。相手がキックを深々と蹴り込んできた。自陣ゴール前でボールを押さえた日本選手に相手選手が突進する。足下にタックルを受けながら懸命にパスを回す。潰されたら試合が終わる。必死にパスをつなぎ、岩渕健輔が左へ回した。自陣ゴールライン手前1メートルでこれを受けたのが大畑大介だ。大畑は右に左に鋭いステップを切り、3人4人と抜き去って快足を飛ばす。相手が3人で潰しに来る。だが大畑は左に進路を変え、相手以上のスピードで突破し100メートルの独走トライを決めた。同点。キックも決まり日本は逆転勝利を収めた。これが「大会史上最高」と謳われる「大畑の100メートル独走トライ」だ。

友だちは欲しかった

 大畑は2006年、テストマッチ通算トライを65に伸ばし、キャンピージ(豪)を抜いて世界1位になった。一体、大畑はどんな道筋をたどって世界的なラガーマンになったのか。

「子どものころは泣き虫で、あかんたれの男の子やったんです。滑り台に乗ったら泣く、プールに入ったら泳げなくて泣く」

 大畑が真顔で振り返る。

「小学校でみんなと交わることができない子でした。当時はみんな野球少年、大阪だから阪神ファン。僕はそれがたまらなく気持ち悪くて。みんなが興味を持つものに気持ちを置くことができなかったんです。けど、友だちだけは欲しかった」

 大畑少年は考えた。

「みんなに興味を持てないのであれば、『みんなに興味を持たれる人間になったろう』と思った。ベクトルを変えたらいい」

 ならばどうしたら友だちが興味を持ってくれるか?

「足だけは速かった。だから『スポーツしよう』と思ったんです。野球は絶対したくなかった。みんなと違うもので目立ちたい。学校で言うと……、筆箱の中に変な消しゴムとか変な鉛筆を持ってると、『こいつすげえ、何やねん』って注目を浴びるやないですか。教室を筆箱と考えた時、『自分は変な消しゴムになってやれ』と思ったんです」

 それでラグビーを選んだ。

「父が高校でラグビーをやっていたから、家族でゆっくりできるお正月はテレビでラグビーを見ていた。野球の次に身近にあったスポーツがラグビーでした」

 小学校3年の時、父の知人に紹介されたラグビー・スクールに行った。

「家から1時間、縁のない地域で全然なじめない。でも練習の最初がグラウンドの端から端まで走るトレーニングだったんです」

 大畑はいきなりチームでいちばん足の速い子より速く走って注目を浴びた。

「それが自分にとって大きなきっかけでした。その瞬間みんなが自分に振り向いて話しかけてくれた。ただ足が速いだけでポジションを与えられた。学校でずっと居場所がなかったのに、ラグビーを始めた途端に居場所が見つかったんです。『これや』思った。ボールを持って走ると周りが評価してくれる、喜んでくれる」

 ところが、小学校5年になると逆のことが起こった。

「オスグッド(成長痛)で全然走れなくなったんです。そしたら逆に、『オレたちにボールよこせ』ってなった。多感な時期に挫折を味わいました。普通はやめるとこやけど、やめられなかった。僕にとってラグビーは自分の居場所やったから。やっと自分を表現する武器を見つけたのにその武器をなくすのが怖かったんです」

 周りに追い越され、伸び悩む時期が、大畑にもあった。しかも「その他大勢」だった期間は思いのほか長い。浮上したのは高校2年になってからだ。

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