同期・西方仁也が明かす「原田雅彦」の金メダル秘話 「最初は『あんまり飛ぶなよ」と思ったけど」(小林信也)

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「日の丸飛行隊」といえば、1972年札幌五輪を思い出す。70メートル級ジャンプで笠谷幸生が優勝。金野昭次が銀、青地清二が銅。三人がはにかんだ笑顔で表彰台に立つ光景が瞼に焼き付いている。

 その後は80年レークプラシッド五輪70メートル級で八木弘和が銀メダルを獲ったのちはメダルから遠ざかる。

 94年リレハンメル五輪、日本は久々の金メダルに王手をかけた。岡部孝信、葛西紀明、西方仁也、原田雅彦の4人で臨んだラージヒル団体。2本目の3選手まで飛んで日本はトップ。残るエースの原田が無難に飛べば金メダルが決まる。

 日本中が固唾をのむ中、原田は失速、97.5メートルに終わった。着地後、原田はうずくまったまま立ち上がれない。見つめる岡部、葛西、西方は声を失った。原田の失敗で金メダルが消えた。

サッカーをしていたら

 雪辱の場は98年長野五輪だった。野沢温泉で生まれ育った西方にとっては地元での晴れ舞台になるはずだった。が、腰痛に苦しみ、西方は代表から外れてしまう。葛西も代表には選ばれたが、ケガの影響もあって団体メンバーから外れた。4年前失敗した原田が長野の団体戦に臨み、葛西と西方が飛べない痛恨の極み。

 ふたりはそれぞれ原田と浅からぬ因縁があった。

 葛西は原田の4歳下になる。先に「ケガ」と書いたが、それは……。

「97年の12月にみんなでサッカーをしていた時、後ろから原田さんにふくらはぎを蹴られて、歩けないくらい痛めてしまった。調子もよくて、さあこれから行くぞ、という時期だった」

 と葛西が教えてくれた。あまりにも皮肉。

 西方は原田と同い年だ。

「原田は中学1年で全中(全国中学大会)に優勝。北海道にすごい選手がいるんだなと思いました。2年でも優勝した。私は風邪をこじらせて出られなかった」

 西方が振り返る。西方にとって原田は、まだ見ぬ遠い憧れだった。ところが、

「3年生の全中、原田は世界ジュニアに行って出なかった。その大会で10人くらい強い選手のいる北海道勢を破って優勝したのが私でした。西方って誰だ? 周囲がざわめきました」

 一躍、原田と肩を並べる存在となった西方はその後、代表合宿で原田と出会い、すぐに仲良くなった。

「原田とは楽しく練習ができました。高2の時は世界ジュニア、高3の時はW杯を一緒に回りました」

 高校時代も原田は西方の先を行く存在だった。インターハイで原田は優勝。西方は入賞にとどまった。卒業すると原田は雪印乳業に入社。西方はやはりジャンプ選手だった兄・俊也と同じ明治大に進み、卒業後、雪印に入った。ちょうど兄がコーチに就任していた。

「日本のジャンプ陣はずっと低迷していましたが、兄が雪印のコーチになって、意識改革が始まりました。年間計画に沿って本格的な身体づくりに取り組んだ。専門のトレーナーらスタッフも充実していた。その環境は大きかった」

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