元公安警察官は見た シベリア抑留の日本人38名をスパイにしたソ連外交官の変節
日本の公安警察は、アメリカのCIAやFBIのように華々しくドラマや映画に登場することもなく、その諜報活動は一般にはほとんど知られていない。警視庁に入庁以後、公安畑を十数年歩き、数年前に退職。昨年9月に『警視庁公安部外事課』(光文社)を出版した勝丸円覚氏に、太平洋戦争後、シベリア抑留された日本人をスパイにした旧ソ連のラストボロフについて聞いた。
***
戦後、旧ソ連によってシベリアに抑留された日本人は57万5000人、死者は5万5000人にものぼったと言われる。駐日旧ソ連大使館のラストボロフ二等書記官は、抑留者の中から38人をスパイに仕立てた男として知られている。
「日本語が堪能だったラストボロフは、抑留者から目ぼしい人物をスパイとして選抜するKGBの秘密委員会に所属していました」
と解説するのは、勝丸氏。
「彼は、知的水準が高く旧ソ連に協力的な抑留者を選んで、何度も面接しています。スパイにならないと帰国させないぞ、と脅迫することもあったそうです」
警察予備隊情報
日本兵捕虜の多くは1950年までに帰国した。ラストボロフも1950年、二等書記官として駐日旧ソ連大使館に赴任している。
「彼は、日本人スパイから毎月のように1950年8月に設置された警察予備隊に関する情報や駐留米軍の動向を報告させていました。勿論、その見返りに報酬も支払っていました。当時の公安警察はラストボロフが諜報活動を行っていることをまったく知りませんでした」
外交官であるはずのラストボロフの正体が明らかになったのは1954年、彼がアメリカに亡命してからだった。
「1953年3月、旧ソ連のスターリンが亡くなると、自由化政策を打ち出した第一副首相のラヴレンチー・ベリヤが逮捕されるなど、国内で粛清が始まるという噂が流れました。1954年1月、ラストボロフのモスクワ召還が決定。彼は1月25日に帰国する予定でしたが、その前日、テニス仲間とテニスを行っている時に、テニスウェアを着たままアメリカに亡命してしまったのです」
なぜ、アメリカに亡命したのか。
「彼の父方の祖父が富農で、ロシア革命後迫害を受けて亡くなったことが一因と言われています。モスクワ召還が決まったことで、もう二度と自由の国、西側の世界に戻れないと思ったのでしょう。彼はアメリカ人の協力者を得るために、米軍関係者がよく出入りするバーやレストラン、テニスクラブに通っていましたが、本国から二重スパイではないかと疑念を抱かせたことが亡命するきっかけとなりました」
その一方、彼はアメリカによるハニートラップにもかかっていたという。
「ラストボロフがテニスクラブに通っていることを知っていたCIAは、表向きは英語教師でCIAエージェントのメリー・ジョーンズという女性をテニスクラブに行かせました。親しくなってソ連の情報を取れという命令でしたが、2人はデキてしまったんです。結局、彼女が亡命を手配することになりました」
[1/2ページ]