難病を生き抜いた子供たちのいま 「骨髄性白血病」女性は起業、看護師として病院に戻った例も

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「初恋の人という以上に大切な存在」

 弥十郎陽香が入院していたのと同じ頃、大阪市立総合医療センターに小学4年生の少女がいた。北東(きたひがし)紗輝(19歳)だ。3歳で脳腫瘍、小学3年の時には急性骨髄性白血病が見つかった。

 長い時間を病棟で過ごした彼女にとって、先述の久保田鈴之介は初恋の相手だった。まだ小学生だったが中高生の会に呼んでもらい、鈴之介から優しく話しかけられ、一目ぼれした。

 紗輝は鈴之介を「にい」と呼び、毎晩寝る前に病室の壁を指でコンコンコンと叩いた。男子用の病室にいる鈴之介への「おやすみ」の合図だった。彼女は鈴之介との思い出を次のように語る。

「スズ君は、治療のしんどさをわかってくれて、うちのお母さんにもアドバイスをするなど、強く支えてくれました。スズ君から『病気を治すために野菜食べなきゃダメだぞ』って言われたら、嫌いなものでもがんばって食べた。今思えば初恋の人という以上に大切な存在だったと思います」

 鈴之介が亡くなった後、紗輝は彼の高校の制服の第2ボタンをお守り代わりにもらって治療に励み、病魔に打ち勝った。

 私が彼女に最初に会ったのは、TSURUMIこどもホスピスが完成した16年の春だった。中学2年になっていた彼女は過酷な治療の後遺症で左半身に麻痺が残っていたものの、ホスピスのオープンセレモニーに出席し、建設費用の一部を提供したファーストリテイリング(ユニクロ)の柳井正と並んでテープカットをした。

 ホスピスができる前、そこを利用することを楽しみに亡くなっていった子供たちが大勢いた。そうしたこともあり、紗輝は彼らに代わって当事者代表として式に出たのである。

「起業してみるのはどうやろ?」

 私が話を聞いた時、彼女もまた看護師になる夢を抱いていた。だが、体に残る麻痺や体力を考えると、実現は容易ではない。他にどのような道があるのかわからず、母親とともにさまざまなイベントに参加したり、学校見学をしたりして模索している最中だった。

 中学卒業後、紗輝はしんあい高等学院へ入学した。障害者を積極的に受け入れている通信制高校だ。在学中、彼女は医療事務の資格取得や自立支援の作業所などいろんな進路を検討したが、コロナ禍の影響もあってなかなか決められなかった。

 最初の緊急事態宣言が終わった6月、紗輝は学院長と進路相談を行った。学院長の口から出たのは意外な言葉だった。

「起業してみるのはどうやろ? 紗輝ちゃんは、これまでいろんな人と会ったり、イベントに参加したりしてたくさんのつながりがある。それなら人の下で働くより、闘病経験を活かすビジネスをしたら面白いかもしれないよ」

 紗輝は、急に目の前に道が開けたような気がした。

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