「仕方なくクロカンをやっていた」 レジェンド「葛西紀明」が語る原点と次世代のスターとは?(小林信也)

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秋元正博と一緒に

「ジャンプをやりたくて親に相談したら、『ダメ』と、すぐ反対された。危ないからじゃない。『お金がかかる』、それが理由でした。クロカンならスキーとポールがあればやれる。ジャンプはスキー、靴、ワンピースだとか30万はかかる。うちは裕福じゃなかったからあきらめて、仕方なくクロカンをやっていた」

 一緒に始めた友人が飛ぶ姿を、唇をかんで見るしかなかった。そんな葛西を見かねて、少年団のコーチが声をかけてくれた。

「これを履いてみるかって、ジャンプ用のスキーを貸してくれたんです。うちに来て親を説得もしてくれた。『先輩たちのお下がりを使えばいいから』って」

 晴れてジャンプを始めると葛西はすぐ上手くなった。

「1日20本は飛んでました。リフトもエレベーターもない、もちろん歩いて登りました。いまの選手は楽をしてますよ。それでもせいぜい10本くらいですね」

 中学に入ると、競技への思いがますます強くなった。

「秋元正博さん、八木弘和さん、ニッカネン(フィンランド)、バイスフロク(ドイツ)、当時のスター選手は大きな目標でした。新聞の切り抜きを生徒手帳に入れて持っていました」

 秋元は日本人で初めて国外のW杯で優勝したスター。

「中学1、2年のころ、海外で複雑骨折をした秋元さんが復活するための練習に下川を選んだんです。学校が終わるとダッシュで行って、一緒に飛びました。そしたら、『お前、すげえジャンプしてんな』って声をかけられた。そしてワンピースと手袋をもらった」

 天にも昇る思い。それが縁で高卒後、秋元と同じ地崎工業に入社する。まさに運命的な出会いだった。

 雪印杯全日本ジャンプ大会ジュニアの部で優勝するなど瞬く間に期待の星となった葛西が、大人たちを仰天させる出来事があった。

「中学3年の時、宮様スキー大会のテストジャンパーをやったんです。改修前の大倉山。フライトの高い、怖いジャンプ台です。『中学生は飛ばせない方がいい』と言われる中、『葛西なら大丈夫』と選ばれた。めちゃくちゃ何本も飛ばされて、疲れて誰が勝ったかも見ずに帰った。そしたら次の日のスポーツ新聞にデカデカと『和製ニッカネン』と自分のことが載っていた」

 優勝は東昭広。1本目107メートル、2本目108メートル。同じ助走距離で滑ったテストジャンパーの葛西は、107メートルと110メートル。なんと優勝者より飛んでいたのだ。

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