ドイツが「トリアージでの障害者差別禁止」法制化へ:ナチスの罪を繰り返さぬ決意

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 オミクロン変異株のために、世界中で新型コロナウイルス感染者が急激に増えている。こうした中、ドイツ連邦憲法裁判所(BVerfG)は最近下した判決で、医療逼迫によりトリアージを行う際に、身体障害者の差別を防ぐよう政府に命じた。

集中治療を後回しにされるリスク

 去年12月28日にBVerfGが下した判決は、欧州の医療関係者、保健政策担当者たちから注目された。原告はドイツに住む9人の重度障害者たち。彼らは、「将来、コロナ感染者が急増して集中治療室(ICU)のベッド不足のためにトリアージが行われる場合、我々は障害を理由に治療を後回しにされる危険がある」と指摘。「連邦政府が我々を保護するための法制を整えていないのは、違憲だ」と提訴した。

 トリアージとは、戦争、自然災害、大規模テロなどの際に、多数の重傷者(重症者)の中から救命の可能性が高いと思われる者を優先的に治療すること。2020年春のパンデミック第1波では、イタリア北部、スペイン、などで重症者が急激に増えたため、一部の病院の医師たちは、トリアージを行わざるを得なかった。

 BVerfGは原告たちの主張を全面的に認めて、「ドイツでICUの収容能力が不足した場合、重度障害者たちは、障害を理由に治療を後回しにされるリスクがある。連邦政府は、そうしたリスクをなくすための努力を怠っており、憲法(基本法)第3条第3項の『なにびとも障害を理由に差別されてはならない』という規定に違反している」と結論付けた。そして裁判官たちは連邦政府に対し、障害者を守るための法律を早急に導入するよう命じた。

 BVerfGは、違憲問題については日本の最高裁判所に相当する権威を持ち、上告はできない。このため政府もBVerfGの判決には絶対に従わなくてはならない。ショルツ政権のマルコ・ブッシュマン司法大臣は判決を受けて、「直ちにトリアージにおける障害者差別を防ぐための法案の作成に取りかかる」と約束した。

 2020年春以来のパンデミックで、ドイツなど中欧の国々に最大のピンチが訪れたのは、去年(2021年)11月後半から12月だった。

 たとえばオーストリアではデルタ変異株のために医療体制が重症者の急増に抗しきれず、去年12月1日に、保健大臣が同国の一部の病院でトリアージが行われていることを明らかにした。

 ドイツでは去年11月に1日の新規感染者数が4~5万人に達し、同月25日には、全国のICUのベッド2万2163床の内、空きベッドは10.5%にまで減った。特に旧東独のザクセン州など、ワクチン接種率が低い地域では、一部の病院でICUが足りなくなったため、政府は重症者を軍の輸送機やヘリコプターで他の州の病院に移送しなくてはならなかった。しかしドイツでは、これまでトリアージは実施されていない。

「医学界の指針」だけでは残った「抜け穴」

 ドイツの医学界は、パンデミックの初期に、トリアージがこの国でも必要になる事態を想定していた。2020年3月25日にドイツ集中治療・救急医学会(DIVI)、ドイツ呼吸器内科学会(DGP)、医学倫理アカデミー(AEM)、ドイツ緩和医学会(DGP)など7団体は、トリアージに関する指針を発表した。

 DIVIなどは「COVID-19パンデミックに関連する、救急・集中治療リソースの配分の決定についての臨床的・倫理的提言」というタイトルが付けられた文書の中で、「治療の優先順位を付ける際の唯一の基準は、患者の状態に基づく、救命の見込みであるべきだ」という大原則を打ち出した。

 そしてDIVIなどは「患者の身体障害の有無、年齢、社会的地位、国籍などを基準にしてトリアージを行ってはならない」と結論付けている。

 さらにDIVIなどは、トリアージを行う際には医師が独りで行うのではなく、必ず複数の医師が参加し、トリアージを行う理由を細かく文書化することを義務付けている。

 BVerfGは、今回の判決の中で、DIVIなどが発表した指針について「救命の見込みと患者の状態だけをトリアージの目安にし、障害の有無を基準にすることを禁じているのは、憲法の規定に適っている」と認定した。

 ただしこの文書は医学界の指針にすぎず、法律ではない。医師たちが指針に違反して障害者を差別しても、訴追されることはない。そこでBVerfGは判決文の中で、DIVIなどの指針が医療現場で守られず、コロナに感染した障害者たちが治療を後回しにされる危険を「法律の抜け穴」として指摘し、政府に是正を要求した。実際、2020年にこの指針が公表された時、障害者たちからは、「障害を理由にトリアージで差別することの禁止を、法律に盛り込むべきだ」という声が上がったが、当時のイェンツ・シュパーン保健大臣は法制化の要求を突っぱねた。

「T4作戦」による大量殺人

 BVerfGの裁判官たちが、障害者の権利保護を重視した背景には、ナチスがこの国を支配した暗黒時代の記憶もある。

 アドルフ・ヒトラーは1939年に、最初の大量虐殺計画を発動した。ナチスは戦争のために食料など国内の資源が逼迫する事態に備えて、身体や心に障害がある市民約7万人を、国内の数カ所に設置した「安楽死施設」に収容し、一酸化炭素を使ったガス室で殺害したのだ。ナチスは心身に障害がある人たちに「生きる価値のない人間」というレッテルを貼り生存の権利を奪った。T4作戦という暗号名の下に実行された、この大量殺人には、多くの医師たちが関与した。

 ドイツの憲法の第3条第3項に「なにびとも障害を理由に差別されてはならない」という一文が加えられた背景にも、当時ナチスがハンディキャップがある人々の生存権を否定したことへの、反省が込められている。

 命の選別は、アウシュビッツ・ビルケナウ絶滅収容所でも行われた。貨車で到着したユダヤ人たちを、親衛隊の軍医が「選別」した。身体が虚弱で重労働ができない高齢者、大半の女性や子どもは、直ちにガス室に送られて抹殺された。

 ドイツの集中治療医たちが、おととし発表した指針の中で、障害の有無、年齢、社会的地位、国籍などをトリアージの判断基準にすることを固く禁じた背景にも、ナチスが行ったような恣意的な「命の選別」を二度と繰り返してはならないというドイツ人たちの決意がある。彼らが目指しているのは、ナチスの時代の記憶に基づく、倫理重視の姿勢の法制化である。法治主義を重視するドイツ社会は、生死を分けるぎりぎりの判断の瞬間にも、法律による枠組みを重んじる。

 日本の新型コロナウイルスによる累計死者数は、1月7日の時点で1万8402人。ドイツ(11万3632人)の約6分の1に留まっている。「死者数は比較的少ないのだから、ドイツ人のように、医療従事者の取るべき行動を、何から何まで事前に法律で決めておく必要はない」と思う人もいるかもしれない。

 願わくば、ドイツでも日本でもトリアージが必要になる事態は起きないで欲しい。しかし科学者たちの間では、コロナは、人類が経験する最後のパンデミックではなく、将来も別の病原体によるパンデミックが発生する可能性が指摘されている。いつの日か、コロナよりも重症化を引き起こしやすい病原体が世界に広がる可能性もある。仮に日本でトリアージが必要になった場合、心や身体にハンディキャップがある市民が、そうでない人々に比べて不利な立場に置かれる危険もある。そう考えると、医療の最前線で患者の治療に優先順位を付けなくてはならない、ぎりぎりの局面においても、弱者を守る決まりを法制化するドイツ人たちの姿勢は、私たちにとっても無関係とは言い切れないであろう。

熊谷徹
1959(昭和34)年東京都生まれ。ドイツ在住ジャーナリスト。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。ワシントン特派員を経て1990年、フリーに。以来ドイツから欧州の政治、経済、安全保障問題を中心に取材を行う。『イスラエルがすごい マネーを呼ぶイノベーション大国』(新潮新書)、『ドイツ人はなぜ年290万円でも生活が「豊か」なのか』(青春出版社)など著書多数。近著に『欧州分裂クライシス ポピュリズム革命はどこへ向かうか 』(NHK出版新書)、『パンデミックが露わにした「国のかたち」 欧州コロナ150日間の攻防』 (NHK出版新書)、『ドイツ人はなぜ、毎日出社しなくても世界一成果を出せるのか 』(SB新書)がある。

Foresight 2022年1月19日掲載

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