名将・小嶺忠敏さんの功績 指導者としての原点は「焼山に行ってこい」

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痛い“才能流出”

 この強化方法は、他の指導者も取り入れるようになった。小嶺監督が選手にハードワークを課したのは、当時の九州のレベルが低かったせいもあるだろう。テクニックでは静岡や埼玉勢に敵わない。となるとスタミナとフィジカルを強化するしかないからだ。

 地図をご覧になっていただければわかると思うが、島原半島は鉄道網より自動車道の方が整備されている。そこで小嶺監督は自ら大型自動車の免許を取得して、中古のマイクロバスを購入。県内はもちろん九州から本州まで、1人で運転して強化試合に奔走した。

 若かりし頃はランニングシャツ1枚にサンダル履きでバスを運転する小嶺監督の姿がテレビで取り上げられたものだ。それでも、九州の“タレント”流出を止めることはできなかった。

 宮崎県日南市出身の早稲田一男氏(後に日章学園高の監督に就任)が帝京高に進学し、77年度の第56回高校選手権で優勝すると、彼に倣うように川添孝一氏(鹿児島県桜島町[現・鹿児島市]出身)も帝京高に進学し、79年度の第58大会で優勝する。

 その後も平岡和徳氏(熊本県松橋町[現・宇城市]出身。現在は大津高の総監督)と前田治氏(福岡県福岡市)も帝京高に進学し、83年度の第62回大会で優勝するなど、優秀な選手が相次いで東京の帝京高に進んだ(その後も熊本小川町[現・宇城市]出身の礒貝洋光氏[元G大阪ほか]や福岡県北九州市出身の本田泰人氏[元鹿島]らも帝京高に進学)。

悲願の初優勝

 もちろん彼らには彼らなりに特段の事情があって帝京高への進学を決断したのだろう。遠く親元を離れての生活には多くの苦労があったことは想像に難くない。そして当時の帝京高は、国見高に勝るとも劣らないハードな練習を実践していた。

 元日本代表のOB選手によると、東京・板橋区にある学校から環七通りを走り荒川の河川敷に出ると、土手沿いに足立区を通り越して葛飾区まで延々とランニングが続いた。目的地が教えられていないため、黙々と走るしかなかったそうだ。そして折り返して学校の近くまで戻って来たと思ったら、学校に戻らず環七通りを通り越して荒川を北上することもしばしばだったという。

 話を小嶺監督に戻そう。そんな流れに変化が起きたのは84年度の第63回大会で、島原商が帝京高と両校優勝ではあったが九州勢として初優勝を果たしたことだった。

 すでに小嶺監督は国見高へ異動していたものの、チームを育てたのは小嶺前監督であり、島原商ベンチで教え子たちの活躍を見守っていた。そして九州の学校でも選手権で優勝できることを証明した。

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