名将・小嶺忠敏さんの功績 指導者としての原点は「焼山に行ってこい」

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「巨星墜つ」とは、まさにこのことを言うのだろう。

 長崎県立国見高校を率いて全国高校サッカー選手権では戦後最多タイ記録となる6度の優勝を達成し、数多くの名選手を輩出した小嶺忠敏氏(長崎総合科学大附属高監督)が1月7日に肝不全のため長崎市内の病院で死去した。76歳だった。

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 小嶺氏が指導者の道に入ったのは、大阪商業大学を卒業した1968年のこと。母校の長崎県立島原商業高校に商業科の教諭として赴任し、サッカー部を指導した。

 当時の島原商はすでに高校選手権出場10回を誇る強豪だったが、高校サッカー界は“御三家”と言われた広島県、静岡県、埼玉県に加え、山梨県の韮崎高、千葉県の習志野高、東京都の帝京高などが台頭し、島原商をはじめとする九州勢はベスト4の壁をなかなか破れなかった。

 小嶺監督は、その巨体から「ダンプ先生」と呼ばれ、親しまれていた。しかし練習は超ハードで、指導は私生活も含めて厳しいものだった。

 サッカーに限らずスポーツの基本にランニングがあげられる。島原商時代の小嶺監督は、島原駅からクルマで15分ほどのところにある焼山(やけやま)へのランニングをどの年代の選手にも課した。「焼山へ行ってこい」と。

 それは国見高に異動してからも変わらず、市内から6キロほど離れた狸山(たぬきやま)への往復ランニングを課した。

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