「大屋政子」の毀誉褒貶 資産は300億円、“おとうちゃん”が再生した帝人の手のひら返し

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萎縮した社員

 話を帝人の安居の時代に戻す。民僚の跋扈で成長は完全に止まり、守りに入ってしまっていた。「手を広げすぎて失敗したのだから、何もしない方がいい」という雰囲気に包まれ、自発的に物事を考える社員は姿を消した。

 ここを変えないと会社は変わらないし、活気も出ない。安居はマネジメント改革を経営の中心に据えた。

 古い仕組みを破壊するには抵抗がつきものだ。本流にいた人間には難しいが、傍流の異端児ならやれると判断した(安居の)前の社長の板垣宏に、人を見る目があったからこそだが、安居もよくやった。

 イエスマン体質は、絶対君主として君臨した大屋時代から続く帝人の風土だった。帝人では「社長と副社長の間は、副社長と社員の間より遠い」といわれた。最後に晋三を見舞った副社長は、ベッドから5メートル離れた位置でしか面談できなかったという。本当の話である。

 晋三が推し進める多角化路線を危惧する声は社内に満ちていたが、独裁者の大屋に諌言できる役員はひとりもいなかった。取締役会は晋三の独演会だった。さらに、晋三の死後、縮小均衡路線への転換を迫られてからは、リストラ至上主義が幅を利かせ、社員を委縮させた。

遅咲きのリーダー

 おかしいと思ったことを上司でも役員でもはっきり言う性格が災いして、安居は左遷・出向を繰り返してきた。27歳の時、東アフリカへワイシャツの販売網をつくりに出かけたのを皮切りに、訪れた国は50カ国以上。出向が5回で延べ20年。このうち海外の企業への出向が台湾とインドネシアの2回で10年に及んだ。同じ部署に5年いたことは一度もなかった。

 おかげで安居は、英語、中国語、インドネシア語を操る語学力を身につけ、のちにデュポンなど海外の有力企業と渡り合った時は、すべて通訳抜き、直接英語でやり取りした。

 安居は定年直前の57歳で取締役になった。前社長の板垣は安居を役員にした時から、安居を次の社長と考えていた。安居は遅咲きのリーダーだったが、帝人の決定的な危機を回避する役割を見事に演じ切った。

 安居は停滞し切った社内の風土を打破するために、「ノー」と言える意識改革を目標に掲げた。安居は取締役会の活性化のために、事前の根回しを禁止した。取締役会はぶっつけ本番。案件によっては、シナリオ通りにはいかず、却下されることが出てきた。

 大屋晋三が社長時代のような「全員賛成」で議案がスムーズに通ることがなくなった。晋三の時代に、彼の事前審査で事実上、決済は終了していて、形式的に取締役会に諮るだけだったが、こうしたことを安居は極力、排除した。

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