跋扈する「コピペ裁判官」たち “NHK受診料”の誤記もそのまま判決文に、のお粗末

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問われる裁判官の独立性

 以前、筆者は国立大学でマスコミ講座を持った。「マスコミ論」というよりは様々な取材体験などを紹介し、比較的自由なテーマで受講学生にレポートを書いてもらった。

 すると筆者が知らないような言論の自由問題などの事例を展開させるレベルの高いレポートが散見し、真夏に120人ほどのレポートを汗だくで読みながら、「なかなか勉強しているなあ。調べるの大変だっただろう」と感心していた。ところが当時、大学生だった娘が笑ってこう言ったのだ。「そんなの、全部コピペだよ」。

「なんだ、コピペって?」。 アナログ派の筆者は当時、知らなかった。(正確に言うと方法は知っていたが「コピペ」という名称を知らなかった)。

 学生は与えたテーマの言葉をパソコンで検索し、ヒットして出てきた論文や記事などをうまく合わせて並べたようだ。もちろんそうしたレポートばかりではなかったが「それなら、講義の感想でも書いてもらったほうがよかったな」と少し残念だった。

 だが、無知な教員に学生がコピペで対応するのと、提訴者が命を懸けて裁判にまで訴えたことを裁判官がコピペで片づけるのでは話が違う。

 憲法76条は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」とある。裁判長は各裁判所など組織の代表ではない。各裁判官が独自に判断する「自由心証主義」が保証されている。

 前述の井戸謙一弁護士は「集団訴訟では訴えの内容が類似することが多いが、仮に基本的な考えが他の裁判官と同じであっても、結論への思考過程とか、それをどう表現するかは、個々の裁判官でそれぞれ違わなくてはおかしい。裁判官というのは組織を代表している人間ではなく、一人一人が独立した存在のはず。どうすればコピペを防止できるかなどという話ではなく、裁判官の自覚とプライドの問題でしょう」と話す。

 プライドや矜持のレベルならまだいい。まさか、最高裁が請求棄却のための「ひな形判決文」を作って当該裁判所に回しているとは思いたくないが。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

デイリー新潮編集部

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