流通王・ダイエー「中内功」の罪と罰 V革作戦の立役者を追放、長男抜擢という悲劇

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神戸の象徴、ダイエー

 神戸には随所に、ダイエーの夢の跡(あと)がある。

 高度成長期、神戸市は「山、海へ行く」と名をはせた開発手法で成長路線をひた走った。ダイエーも市の開発地域に相次いで進出した。スーパー、レストラン、ホテル、大学……。ダイエーは神戸が輝いた時代の象徴であった。

 しかし大震災は、神戸市とダイエーに決定的な打撃を与えた。ダイエーの被害総額は500億円にのぼり、ダイエーグループ全体の死者はパート・アルバイトを含め21人、親族死亡は88人に達した。

 大震災がダイエーの膨脹主義に対する頂門の一針となったことが、後々はっきりしてくる。震災からの再建がダイエーの経営に重くのしかかり、打つ手打つ手が、一歩、二歩、三歩の遅れとなった。阪神・淡路大震災が、ダイエーが解体へ突き進む遠因となった。

 とはいえ、阪神・淡路大震災におけるダイエーの水際立った救援作戦は、流通の巨人・中内功が最後に輝いた一瞬でもあった。

地獄のフィリピン戦線

 商売人としての中内の原点は、フィリピン戦線で地獄を見た飢餓体験である。

 1943(昭和18)年1月に応召した中内は、満州国(現・中国東北部)とソ連(現・ロシア)の国境に駐屯した。

 1944(昭和19)年7月には、酷寒のソ満国境から一転して、温度差が80度もある灼熱のフィリピン戦線へと転戦命令を受けた。伍長から軍曹に昇進。所属する比島派遣第14方面軍直轄の独立重砲兵第4大隊は、ルソン島北西のリンガエン湾を防衛すべく布陣した。第14方面軍司令官は、“マレーの虎”と恐れられた陸軍大将の山下奉文(ともゆき)だった。

 ここで中内は、本当の地獄を見ることになる。

 1945(昭和20)年1月7日、突如、リンガエン湾に大艦隊が出現した。敵艦隊は850隻にもおよんだ。艦載機グラマンの昼夜を問わぬ攻撃によって、完全に敵に制空権を奪われた。機銃掃射から逃げ回る日々が続いた。バギオのイリサン谷では戦車特攻隊が編制され、敵戦車を待ち伏せして特攻を敢行した。

 大艦隊がリンガエン湾に姿を現してから5カ月後の6月6日、中内はルソン島北西部のバンバン平地にいた。ここが中内の最後の切り込みの舞台となった。中内は日本経済新聞の『私の履歴書』(2000年1月に1カ月連載)にこう書いた。

《軍曹として部下を指揮し、山上の敵塹壕(ざんごう)へ切り込みを決行。敵の投げた手榴弾が目の前に転がってくる。爆発まで三秒。拾って投げ返そうにも体が金縛りにあって動かない。鼓動が高鳴り、思考は止まる。その瞬間、手榴弾がさく裂。バットで全身を殴られたようだ》

大量出血と飢餓

《背中の飯ごうは穴だらけ、突撃の動作で背中の軍刀を抜く姿勢を取っていた。もう十センチ体を起こしていたら、全身に破片が突き刺さっていた。傷は大腿(だいたい)部と腕の二カ所。ドクドクと血が噴き出し、出血多量で眠くなる》

《「これで一巻の終わりだ」。走馬灯のように子供のころからの記憶がよみがえる。裸電球がぼーっと照り、牛肉がぐつぐつ煮え、家族がすき焼きを食べている。(中略)死ぬ前にもう一度すき焼きを腹いっぱい食べたいと、来る日も来る日も願った。その執念がこの世に私を呼び戻した》

 季節は雨期。蒸し暑い。傷口にはウジがわき、腐った肉を食う。ウジが腐食部分を食ってくれたおかげで、手も足も切断せずにすんだ。その後は、いっそう悲惨な敗走が続く。

《「芋の葉っぱ」さえ食えず、アブラ虫、みみず、山ヒル……。食べられそうなものは何でも食う。靴の革に雨水を含ませ、かみしめたこともあった。人間の限界を問う飢餓。まさにあの『野火』の世界……〉(前掲『私の履歴書』)

野火』(新潮文庫など)は大岡昇平のフィリピン戦線、レイテ島の戦争体験に基づいた作品である。

 中内が敗戦を知ったのは、8月15日から2、3日後のことだった。投降した中内は、そこから無蓋(むがい)車に乗せられて、マニラ郊外にある日本人俘虜(ふりょ)収容所に送られた。中内はここで、敗戦国の国民の屈辱というものをつくづくと思い知らされた。

《女の将校が着ているものをすべて脱ぎ捨て、それを洗っとけ、と日本人俘虜に命じる。それも犬でも扱うように、土足で日本人俘虜のケツを蹴とばしながらの命令だった》(前掲『私の履歴書』)

「何でも売った」

 1945(昭和20)年11月、中内はフィリピンから鹿児島の加治木港に復員した。重砲兵611人のうち復員兵は118人にすぎなかった。フィリピン決戦には延べ63万人が投入され、48万人が戦死した。

 戦争とそれにつづく俘虜体験が、戦後の中内の行動の原点になった。

 人間の底知れぬ残虐さ、卑劣さ。人間には弱さがあって、権力というものが持つ法の名を借りた不条理さを知ることになる。中内の反骨のエネルギーは、すべて戦争体験から生まれた。一言でいえば、憤りである。

 出征から3年。中内は復員した。極限の飢餓状態を生き抜いた戦争体験は、人生観に大きな影響を及ぼした。

「人と幸せとは、物質的な豊かさを満たすこと」

 そう考えた中内が目を向けたのは、異様な熱気に包まれていた神戸の三宮や元町の闇市だった。

「何でも売った。いざこざも日常茶飯時。危ない目にも何度も遭った。ハジキを真ん中に中国人ブローカーと取引したこともある。度胸が据わった」と中内は述懐している。

「神戸から二つの大企業が生まれた。ダイエーと山口組だ。どちらも焼け跡から這い上がって、ナショナルチェーンになった」――これが中内の口癖だった。ダイエーの中内にとっても、山口組三代目の田岡一雄にとっても、“事業”の原点は欲望が渦巻く神戸の闇市だった。

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