流通王・ダイエー「中内功」の罪と罰 V革作戦の立役者を追放、長男抜擢という悲劇

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3期連続の赤字

 百貨店の有力な問屋ルートを確保できないまま、プランタンは神戸・三宮、札幌、大阪・千日前、そして東京・銀座へと立て続けに出店した。しかし、商品力の弱さは致命的だった。百貨店への進出がダイエーの躓きの始まりとなった。

 破竹の快進撃を続けてきた「流通王」が奈落の底につき落とされたのは、1兆円達成からわずか3年後の1983(昭和58)年のことだ。同年2月期の連結決算で初めて65億円の最終赤字に転落した。翌84年同期は119億円、翌々85年同期は88億円の赤字と、3期連続の赤字をタレ流した。もう4兆円構想どころではなくなった。

 ここから奇跡の復活といわれたダイエーの“V革作戦”が始まる。Vは勝利(Victory)から取り、業績をV字型に回復させることを意味する。中内は『私の履歴書』でV革についてこう書く。

《ダイエーグループ全体の手術が必要である。私はそれを前の年にスカウトした河島博(かわしまひろし)副社長に全面的に任せた。河島さんは日本楽器製造(現・ヤマハ)の社長として活躍したばかりでなく、海外での販売経験もあり、レジャー関係や音響機器にも詳しい。その腕を見込んだ》

《「イケイケドンドン」型が多い当社のマネジメント層の中で数字に強く、論理的思考のできる米国型ビジネスマンとして河島さんは異彩を放っていた。その河島さんが大卒一期から三期までの若手幹部を指揮して再建のための三カ年計画、いわゆる「V革」を練った。ポイントは子会社の構造改善と本体の収益力向上である》

幹部社員の前で土下座

 しかし、佐野眞一の前掲書『カリスマ』によると、かなり様子が違った。

《中内は八三年度の連結赤字が明らかになったとき、浜松町オフィスのセンタービルの十四階会議室に集めた幹部社員の前で、ひざまずいて床に頭をこすりつけ、号泣しながらいった。/「どうかもう一度、オレを男にしてくれ。みんなでオレを助けてくれ」/これが、前年五月、日本楽器(ヤマハ)の社長からダイエー入りした河島博を総指揮官として、業績をV字に回復する“V革作戦”のはじまりだった》

 中内は〈過去の「ワンマン中内」を知る人には信じられないだろうが、このとき、計画の立案から実行までのすべてを若手に任せた〉(前掲『私の履歴書』)と説明している。V革の時期、中内は経営に口を挟むことはなかった、というのだ。もしそうなら、ダイエーは“中内商店”を脱して初めて組織体となったことになる。

 河島は売上至上主義の経営から利益を重視した経営へと、根底から軌道修正をした。業績の足を引っ張った百貨店のプランタンは、銀座店以外の店舗を子会社のプランタンからダイエー本体の運営に移管。さらに、不採算事業の撤退、在庫管理の徹底により、3年後の1986(昭和61)年2月期決算で連結利益を黒字転換し、V字型の業績回復をなし遂げたのである。

最大の判断ミス

 問題はV革が成った後だった。V革が成功すると、中内は経営の第一線に復帰した。ダイエーは元の“中内商店”に戻ってしまった。

 中内は《この成功はダイエーグループ全体の診断書を書き、大胆な手術を冷静に実行した河島副社長の手腕に負うところが大きい》(前掲『私の履歴書』)と書くが、その言葉とは裏腹に、その河島を1987(昭和62)年2月、再建を引き受けたミシンのリッカーに社長として追いやった。

 ダイエー本体からの事実上の追放である。河島シンパの大卒1~3期生のV革戦士たちは、経営中枢から次々と地方の関連会社に出され、多くは社外に去っていった。河島が経営の実権を握ると、息子・潤の社長の目がなくなることを危惧したためと解説されている。

 中内が復帰したのは、まさにバブルの時代であった。プロ野球のホークス球団、神戸の名門ホテル「オリエンタルホテル」を皮切りに、リクルート、マルエツ、忠実屋などを次々と買収。ドーム球場(現・福岡ペイペイドーム)や巨大な複合商業施設を建設した。系列のノンバンクを通じて、怪しげな“バブル紳士”たちの資金スポンサーになったのも、この時期だ。バブル期の過大な投資とM&Aが、有利子負債を膨らませたのである。

イトーヨーカドーとの明暗

 代わって、長男の潤を33歳の若さでダイエーの副社長に就任させたのが、最大の人事のミスであった。二男の正はプロ野球球団「福岡ダイエーホークス」のオーナーに就いた。長男を流通部門の、二男をレジャー部門のトップに据えて、中内王国を盤石なものにしようとしたと指摘されている。

「V革が続いていれば、ダイエーがバブルにのめり込むことはなかった。V革の成功とバブルの到来を好機として、自らの復権と長男・潤への後継のレールを敷こうとした。これが、ダイエーが解体される最大の原因になった」と元役員は苦々しい表情で証言する。

 皮肉にもV革の3年間が、中内が経営者としての度量を見せた最後の時代となった。中内自身の復権の野望、河島の追放、潤の抜擢をもたらした“V革の悲劇”が、先々のダイエーの解体につながった。流通業界の歴史に残る中内の大きな判断ミスとなった。これはイトーヨーカ堂オーナーの伊藤雅俊が取った行動とは対照的だった。

 伊藤は日本経済新聞の『私の履歴書』(伊藤自身の履歴書である。言うまでもないが、念のため付言しておく)の中で、中間決算の減益が確定した1981(昭和56)年の会議で《「我々が気付かぬうちに世の中が変わり、大変な事が起きているのではないか」と不吉な予感を口にした》と書く。

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