追悼・神田沙也加さん 突然の芸能活動休止、大地真央との縁…芸能生活を振り返る

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 歌手で女優の神田沙也加さんが亡くなった。12月18日、宿泊していた札幌市内のホテルの22階から14階の屋外スペースに転落した。北海道警は状況から自死と見ている。沙也加さんは主演ミュージカル「マイ・フェア・レディ」の北海道公演に出るため、札幌入りしていた。

 TBSのあるドラマ制作者によると、「2世芸能人は星の数ほどいるが、成功するのはせいぜい3割」なのだという。

 俳優の神田正輝(70)歌手の松田聖子(59)の長女として1986年10月に生まれた沙也加さんは間違いなく成功者の1人だった。

 2014年に公開されたディズニーのミュージカル・アニメ映画「アナと雪の女王」では王女・アナ役の日本語版吹替えを担当。これらの活躍により、経済産業省が後援する翌2015年の第9回声優アワードの主演女優賞を受賞した。

「私が獲れるはずもない賞です。デビュー前に最初になりたいと思ったのは声優さん。(受賞は)私が一番驚いています」(同賞授賞式での沙也加さん)

 沙也加さんは泣いていた。

 2017年には主演ミュージカル「キューティ・ブロンド」の好演が評価され、演劇賞・菊田一夫演劇賞を受賞した。段田安則(64)、松たか子(44)、宮沢りえ(48)らも得た権威ある賞だ。この時も「目標でした」と目を潤ませた。

 2001年の米映画を基にしたこのミュージカルは、お洒落な女子大生がエリートの彼氏に振られた後、一念発起し、弁護士を目指す痛快な物語。沙也加さんはこのミュージカルを成功させたことにより、女性ファンが増えた。

 人柄についての悪評も聞いた試しはなかった。20年、30年と芸能・文化畑の取材をしてきた者なら、皆そう言うだろう。

 2012年にテレビ東京のアニメ「貧乏神が!」の艶光路撫子役で声優デビューする前には、既に歌手、女優として知名度があったにもかかわらず、専門学校に通い、声優について基礎から学んだ。努力家であるところも高く評価されていた。

母・聖子は「私より彼女のほうがうまい」

 芸能界入りは2001年5月。14歳の時だった。グリコのCMに「SAYAKA」の名前で出た。CMソングも歌った。聖子もアイドル時代にグリコのCMに出ており、2代続けて同社の顔を務めた。

 その前年の2000年には日本武道館で行われた聖子のコンサートに飛び入り参加。同年に発売された聖子のアルバム「LOVE」では「Twinkle Star,Shining Star」を親子でデュエットした。

 もっとも、当初の聖子は沙也加さんの芸能界入りに反対していたという。神田も同じだった。それでも沙也加さんの意思が固かったため、聖子も神田も「やるからには中途半端にしないように」と厳命したそうだ。

 2001年のカンヌ国際映画祭では沙也加さんが出演した米映画「BEAN CAKE(おはぎ)」が短編部門のパルムドール(最高賞)に輝いた。

 撮影されたのは沙也加さんがデビューする前の1999年。当時、ロサンゼルスの日本人学校に通っていた沙也加さんが、神田と聖子には何も言わずにオーディションを受け、合格しての出演だった。

 当時の聖子はTOKYO FMのラジオ番組「アフタヌーン・ブリーズ」の中で「最高にうれしいです」、「私より彼女のほうが(演技が)うまい」と、自分のことのように喜んでいた。

 沙也加さんは翌2002年5月には「ever since」で歌手デビューを果たす。15歳の時だった。この曲は長瀬智也さん(43)が主演したフジテレビの連続ドラマ「ビッグマネー!」のエンディング曲に選ばれた。歌手として最高の船出だった。

 当時、沙也加さんは自分のホームページにこう胸の内を記していた。

「イントロが流れ出した瞬間、感動とうれしさで体が熱くなり、鳥肌が立ちました。その感覚は今までにないものでした…。この日を忘れないと思います」(沙也加さん)

「銀のスプーンをくわえて生まれてくる」という言葉がある。基はイギリスの慣用句で、恵まれた一生を送ることが約束された赤ん坊という意味だ。2000年代前半に芸能・文化畑の記者をしていた者は沙也加さんがそうであると確信していたはずだ。

 その後も2002年11月に持ち歌の「Believe again」が全国高校ラグビー大会のテーマ曲に選ばれたり、2004年には宮本亜門氏(63)演出のミュージカル「INTO THE WOODS」でヒロイン・赤頭巾役を演じたり、芸能活動は順風満帆に映った。

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