「笑い声は時として凶器になる」 ふかわりょうが五輪を巡る炎上騒動で感じた「周囲の笑い声の残酷さ」

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イエスマンの笑い声で周りが見えなくなる権力者

 誰しも、雰囲気に押されて笑ってしまったものの、あとで冷静に考えたら、あそこは笑うべき状況ではなかった、ということはあるでしょう。場を重んじ、協調性を大切にする習慣の弊害。気を使って笑う人々。そこに権力者がいれば、たくさんのたいこ持ちもいるでしょう。出世のために、上司の駄洒落に爆笑する部下。笑うことで懐に入る。私はあなたに従っているという表明。自己防衛としての笑い。面白いからではなく、意思表示としての笑い。

 しかし、こういう人々に囲まれた環境はやがて、取り返しのつかない発言を誘発します。あの女性蔑視発言は、個人というより、発した人物を取り巻く環境によって生まれた言葉。神輿を担ぐように、普段から彼の発言を持ち上げる空気の末路。えてして権力者に起こりがちなのは、この構造です。イエスマンが集まっていると権力者は聞こえのいい笑い声に囲まれて、本来聞くべき音が聞こえなくなってしまう。

笑い声に乗せられて……

 かつて、私の現場マネージャーに究極のイエスマンがいました。新人の頑張り屋さんだったのですが、収録後に「どうだった」と聞けば間髪入れずに「良かったです」。たとえ土砂降りでも、私が「いい天気だね」と言えば、「ですね」と言う。私は、自分が腐ってしまうと思いました。ちなみに、チーフ・マネージャーが、泣く子も黙るノーマン。滅多に首を縦に振らない男。間に入っているマネージャーは、「チーフに聞いてみます」と仲介に徹する男。そういう意味では、アクセル、ブレーキ、クラッチと、とてもバランスのとれた素晴らしいチームでしたが。

 学生時代の横暴を尋ねるインタビュー。そこにも笑いがありました。聞き手が笑顔で合いの手を入れれば、話し手も饒舌になり、餅つきのようにテンポよく進む取材。機嫌を損ねるわけにはいきません。ライターも、書くためにたくさん話してほしいわけですから、そこに倫理観や常識を持ち込もうとは思いません。ましてや心酔している人へのそれであれば尚のこと、正義心なんてどこかへ行ってしまいます。当時のインタビュアーが、内心、これはちょっとまずいなと思っていたのかはわかりませんが、たとえそうでなくとも、彼を責める気にはなれません。私自身も当時その記事を目にしていたら、語る人物の魔法にかかっていたかもしれないですから。いずれにしても、聞き手の笑いは、彼の行為を肯定し、被害者に、より痛みを加えることになります。

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