石橋正二郎 ブリヂストン創業秘話 地下足袋屋はなぜ自動車タイヤの製造を始めたのか

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失敗を商売の糧にする

 兄の徳次郎は「金ばかり使って本業が傾くぞ。タイヤは止めたほうがいい」と諫めたが、正二郎は「必ずものにするので、1年だけ様子を見てください」と頼み込んで、国産タイヤの生産を続けた。

 福岡県・久留米には“石橋の股火鉢”という言葉が残っている。返品の山を前に、一人ぽつねんと火鉢に股がりながら、腕を組んで思案にくれていた正二郎の姿から、地元の人々が言い始めたのだという。

 だが、知恵者の正二郎は無駄に股火鉢をしていたわけではなかった。

 返品されてきたタイヤを荷馬車の車輪に使うことを考えついた。これなら沢山の荷物を積んだ馬車でも軽く引ける。荷馬車の車輪にタイヤを使うことが久留米発で全国的に広がり、返品の山はみるみるうちに消えてなくなった。

 タイヤ製造の技術を応用してゴルフボールの製造も始めた。

 改良を重ねた結果、国産タイヤの品質は向上してきた。

 そこに時代の風が吹く。1937(昭和12)年に日華事変が始まると、軍は「国産品愛用」のスローガンを掲げ、全面的に国産タイヤを採用した。ブリヂストンは時流に乗って、軍用トラックのタイヤメーカーに変身したのである。

理想と独創

 戦後、巨大企業となった石橋グループは財閥解体を免れるために、兄の2代目・徳次郎がゴム靴の日本ゴム(現・アサヒシューズ)、弟の正二郎がタイヤと経営を分離した。

 正二郎は1976(昭和51)年9月11日、死去した。享年87。

《零細の家業からスタートし、新しい需要の起こるような独創的なものに目をつけ人に先んじ、人の真似をしたのではない。何事をもなすにも真心をもって、物事の本末と緩急を正しく判断し、あくまでも情熱を傾け、忍耐強く努力したのであって、運がよいとか先見の明があるとかいわれるけれども、世の中のために尽くすという誠心誠意こそ真理だと思っている》

 前掲の『20世紀日本の経済人』は正二郎の「私の歩み」を引用して、「この言葉に尽きる生涯であった」と正二郎の経営者の人生を総括した。

 正二郎から事業を継いだ長男・幹一郎は、資本と経営の分離を断行、会長に退く際に一族以外の社長を抜擢し同族経営から脱皮した。

 幹一郎の長男・寛が監査役に名をとどめていた時期はあったが、現在、ブリヂストンの役員に創業家の石橋家の一族はいない。2020年3月下旬に石橋秀一副会長が代表執行役グローバルCEO(最高経営責任者)になったが、石橋は石橋でも創業家とは無関係である。

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