野村監督は新庄剛志になぜ投手をやらせたのか 「悔しいくらいかわいい」と言わせた師弟関係

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FAに無念の野村

 だが、師弟関係は唐突に終わりを迎えた。新庄はシーズンオフにFAを宣言したのだ。野村は球団に残留交渉を頼んだ。

「阪神も人気の新庄さんを手放すつもりはありませんでした。5年12億円という超大型契約を提示したと報道されました。ところが新庄さんが選んだのは大リーグのメッツ。何と契約金は当時のレートで3300万円、年俸も2200万円と破格の安さでした。『お金はいらない。世界的なスターを目指す』と固く決心しているのですから、交渉の余地はありませんでした」(同・記者)

 野村はNHKの取材に応じ、「制度がある以上は、残念ではあるが仕方がない」と無念さをにじませた(註2)。

《新庄も悩みに悩んで移籍を決めたのだろう。きのう本人から電話があったが、本人の意志が相当に固かったので、私の方からは何も言わなかった》

 大リーグではメッツ、ジャイアンツ、再びメッツと3年間プレー。平均打率2割4分5厘、本塁打20本の記録を残した。特に守備の評価が高く、前に紹介した野村の「守備も申し分なく、外野として必要な要素はすべて備えていた」との言葉がメジャーでも証明された格好になった。

“仲悪く見せましょう”

 渡米前の「メジャー挑戦は3年間」との“公約”を守り、新庄は日本に復帰。「最初に声をかけてくれた」日ハムに入団した。

 2004年の日ハムは、本拠地を札幌に移しての開幕となった。期待された“スター”としての役割を果たし、観客動員やグッズの販売に大きく寄与した。更に、リーダーシップも発揮してチームをまとめあげた。

 新庄らしいパフォーマンスが発揮されたのは2006年4月。何と開幕したばかりのタイミングで、今季限りでの現役引退を表明した。

 周囲には戸惑いの声もあったが、新庄はチームの中核として貢献。パ・リーグを制覇すると引退セレモニーが行われ、日本シリーズでは中日を下して日本一に輝いた。

 2018年9月、新庄は自叙伝『わいたこら。――人生を超ポジティブに生きる僕の方法』(学研プラス)を出版。週刊大衆の取材に応じた(註3)

 その中で野村と深い師弟関係が続いていたことを明かし、《よく仲が悪いと書かれていた野村(克也)さんとは、実はめちゃくちゃ仲がいい。意外に気が合うんですよね》と語っている。

《日ハム時代は楽天の監督だった野村さんと“仲悪く見せましょう”って話していた。パ・リーグを盛り上げるために、いつも2人でケンカして、マスコミを使って舌戦をどんどんやろうと》

《そんなことを、2人で食事をしながらミーティングしていましたね。僕が何か思いついて野村さんを食事に誘うと、“分かった”ってきてくれるんですよ》

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