野村克也が古田敦也を名捕手に育てた「叱責」とは

スポーツ 野球 2020年3月18日掲載

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 2月11日に急逝した野村克也氏(享年84)が育てた選手は数多い。しかし、何といってもその筆頭に挙げられるのは古田敦也氏だろう。球界を代表する名捕手をどうやって育てたのか? 野村氏の最新刊『野村克也の「人を動かす言葉」』(新潮社)には、古田氏を巧みな「言葉」で育て上げた詳細がつづられている(以下〈〉内引用は同書より)。

 古田氏は1989年のドラフト2位。野村氏がヤクルトの監督になって初めてのドラフトだった。立命館大学からトヨタ自動車の正捕手。88年のソウルオリンピックでは日本代表にも選出(結果は銀メダル)。実績は十分だった。

〈だけど、私は実は古田獲得には反対したんだ。いや、だからこそ、反対したと言っていい。大学や社会人を経験して来ると、投手も捕手も、変なクセを持って入って来る場合が多いんだよ。私は監督として、自分の理想の捕手を育てたかったし。(中略)だから、古田の過去をなかったことにしてでも、じっくり育てようと思った。具体的には、「試合には出なくていいから、ベンチで必ず俺の隣に座れ」とする。そして、味方や敵の投手の次の配球を、私が言い当てる。古田だけじゃなく、みんなびっくりしていたよ。「どうしてわかるんですか?」と。そこで私がその理由を言う。そうやって鍛え上げて行こうと思ったんだ。できれば3年以上かけてね〉

結果論だけで物事を言うようにはなるまいと、私は誓った

 しかし、当時のヤクルトは人材難。古田氏は1年目から1軍出場することになる。いきなりのプロの現場。戸惑う古田氏に、野村氏は容赦なかった。特に、打たれた後の叱責は相当なものだった。

〈(配球の)根拠を言え、根拠を! お前の出す指の向き一つに、選手の生活と球団の未来がかかってる!〉

 これは野村氏自身の経験からきているという。南海入団3年目、正捕手になった野村氏がある試合で投手にストレートを要求してホームランを打たれた。ベンチに戻ると鶴岡一人監督は「馬鹿野郎! ストレートなんか、要求するからだ!」。同じ打者へ次の打順ではカーブを要求。これも打たれると「馬鹿野郎! カーブなんか、要求するからだ!」。

〈その時、私は誓った。結果論だけで物事を言うようにはなるまいと。(中略)私は、入団最初のミーティングで、捕手にはこう言うんだよ。「捕手は捕るだけの『捕り手』でなく、投手の足りないところを補う『補い手』でなければならない。投手にとって、捕手はそういう存在じゃなきゃいけないんだよ」

監督はいても、ドラマを導く脚本家は捕手なんだ

 野村氏が説く、キャッチャーの心得はまだある。宮本武蔵の「観見の二眼あり」――肉眼で「見る」ことはもちろん、心の目で「観る」ことができないと戦いには勝てないという意味である。野村氏は、この教えを翻案して、捕手にはこう言ったという。「右目で投手を見て、左目で打者を観ろ」。

〈この、「観る」能力に長けていたのが古田だった。ベンチでもよく声を出していた。あたりまえだが、応援や鼓舞じゃない。気づいたことをイチイチ口に出していたんだ。「今、変な投げ方しましたね」「さっきより、バット短く持ってるなぁ」「引っ張りにきてる」。(中略)古田には1球の根拠でも、それ以外のことでも、確かによく叱った。(中略)私が怒るのは、捕手しかないんだよ。(中略)なぜって、捕手だけが、他の8人とは違う方向を向いているだろう。(中略)捕手は、投手だけじゃなく、グラウンド全体を統べなきゃいけない、特別なポジションなんだ。野球に監督はいても、実際ダイヤモンドを舞台にドラマを導く脚本家は捕手なんだ〉

最期のバッターボックス

 2019年7月11日。神宮球場で開催された、ヤクルト球団設立50周年を記念したOB戦。二つに分かれたOBチームのうち「GOLDEN 90's」の監督をつとめた野村氏の横には、しっかりと古田氏の姿があった。4回裏「バッター、野村克也」のコールに、球場に詰めかけたファンから大歓声が起こる。

〈試合前、古田は私に、ある提案をしてきた。「監督、試合に出ましょう」。そんなこと言っても、私は前の月に84歳になっていた。足腰もヨボヨボだった。古田は続けたね。「打席まで、僕らが一緒にお供しますから」。私は答えていた。「……行こうか!」〉

 2球目を空振りしたが、最後は申告敬遠。それでもスタンドから拍手と歓声が湧き起こった。打率.277、2901安打、657本塁打、1988打点という輝かしい記録を残した野村克也、これが生涯最後の打席となった。

デイリー新潮編集部