能役者が観客に殺された? 「狂言」に見る室町時代のリアルーー野村萬斎(狂言師)×清水克行(明治大学教授)

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「この辺りの者でござる」

野村 「川上」は確かに人間と地蔵の存在感が対等になってくる感じがありますね。僕なんかはシェイクスピアを演じたときにそれを顕著に感じました。シェイクスピアも初期の段階では亡霊とか魔女とか人間以上の存在が頻繁に出てくるんです。それが「ハムレット」を境に「To be or not to be」というように、自己存在を自分で考えるようになってくる。狂言も宗教に対して距離感をもって、俯瞰して見ているといえます。今、多様性とか包括性という言葉がよく言われますが、僕は「この辺りの者でござる」という言葉が、それを一番顕著に表していると思っています。

清水 狂言の始まりによく出てくるセリフですよね。

野村 神の視点というか、たとえば宇宙船から俯瞰して地球を見ると、地球は丸く見えるわけです。そこからズームしていくと、そこにたまたま一人の人がいる。この人を中心にものを語ろうとして視界を広げていくと、そこにいる人はみんな「この辺り」の一人なんです。いわば「ワン・オブ・この辺り」。位が高いとか低いとか関係ない、平等観がある。

清水 固有名詞がない、ある種の匿名性というんですかね。

野村 水平軸で人を見ないで、垂直軸で見る。真上から蟻を見ているようなところもありつつ(笑)、その人間を否定しないのが狂言だというふうに僕は思っているんです。

清水 なるほど。

野村 「川上」も実はいろんなやり方というか解釈が可能で、演じる人間の年齢にもよるんです。父(野村万作)が若い頃に演じていた時には、何という不条理だという印象を受けました。お互い別れて違う人生を歩んだ方がいいだろうと。

清水 あ、そっちですか(笑)。

野村 でも、もう90歳の父がやると、老い先短い老人が別れて新たな生活を送るよりは、再び目が見えなくなっても奥さんとしっかり手を携えた方がいいだろうとなる。父自身もそういうふうに解釈を変えてくる。

清水 お父様とその辺りの解釈は違うんですか。

野村 自分がどう解釈するかというより、見えていることがアップデートになりますから。それは「離見(りけん)の見(けん)」で、お客様にどう映るか、社会にどう映るかということなんです。舞台が映し、お客様から映される、お互いが鏡面構造ですから。だからかつてはみな涙を流して見ていたのに、今はハッピーエンドだと思う人もいるわけです。

清水 確かに、ハッピーエンドとも理解できますよね。

野村 男女でも意見が違うんです。最近は字幕を付けてアメリカやヨーロッパでも演じるんですが、レセプションなどで感想を聞くと、男性は悲劇的だと言う。女性はとてもいいお話だったと言う。

清水 ははは(笑)。

野村 この辺り、必ずご意見が割れるようですね。

清水 室町時代の狂言には、かなり過激なものもあったみたいですね。古記録を読んでいると、能役者が演じていて観客と喧嘩になって刺し殺されるみたいな話が出てくるんですよね。

野村 おそろしや。

清水 それが時代とともにソフィスティケイトされていくのかなとは感じているんですけど。それでいうと、かつて「かたわもの」と言われた盲人などの障害者を扱ったジャンルがありますよね。あれは今やりにくい時代なんでしょうか。

野村 まずひとえに呼称ですね。放送禁止用語になっている役名がでてきてしまうので非常にやりづらいということはあります。でも今言われている多様性とは、まさしく狂言そのものです。「この辺りの者でござる」と言ったときに、その同心円の中には多様な人物がいる。目が見えない人もいるし、心を病んでいる人もいるし、性の悩みを抱えている人もいる。そういった人々がたくましく生きている姿を描くということは、狂言の一種の在り方ですね。

清水 まったく、そうですね。

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